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2009年01月15日

読んでいない本について堂々と語る方法

ピエール・バイヤール/訳:大浦康介/2008年/筑摩書房/四六

読んでいない本について堂々と語る方法なかなか刺激的なタイトル。この本の力点は「語る方法」にあるので、一般読者というよりは批評家とか評論家と言われる人を視野に入れつつ、ネットで書評などを書いている人を読者対象にしているのだろう。僕の場合は読書経験そのものの感想を書き散らかしているだけ(感想文ともいう)なので、実はあんまり関係がなかったりするのだが。

この本では「読書」を「本に書かれた著者の思想や知識といったものに還元し、それらを仮想の共有図書館に収めること」と捉えているようだ。よって、本について語るということは、その共有図書館を参照しつつ語ることなので、実際にその本を読んでいるかどうかはそれほど問題にはならないという。ようするに間違いでなければ、人聞きでも書評でもまとめサイトでも何でも良いのだ。

本を人々が交わす言葉の相互作用と捉えるならばたしかにそうかもしれない。著者は次のように書いている。

本というものは、〔物理的な意味での〕本である以上に、本が人の手から手へと渡り、変化してゆく言説状況の総体である。だとするなら、読んでいない本について正確に語るためには、この状況にこそ敏感でなければならない。というのも、問題となるのは本ではなく、本が介入し変化してやまない批評空間において、本がどう変わったかということだからである。この変化する新たな対象は、テクストと人間との諸関係からなる動く織物である。未読書について語るための、時宜を得た、正しい方法が提案できるためには、まさにこの対象を視野に置かなければならない。

さらに、人は共有の図書館とは別に個人の図書館を持っており、語りはその個人図書館の情報をもとになされる。そして、著者は語りに創造性を付加するためには本に深入りしないことが良いとしている。なぜなら、本を深く読みすぎることは、みんなが参照する共有の図書館に強く影響を受けることを意味するからである。そうすると、仲俣さんの本読みの方法は、この本の理論で言えばまったく正しいということになる。

それはさておき、これは昨今よく語られるデーターベース論と近い発想で僕自身大いに納得のいくものだった。そして、この本を読んだときふと宇野常寛さんの『 ゼロ年代の想像力 』が頭に浮かんだ。

Posted by Syun Osawa at 00:53