bemod

2009年01月24日

1968年

スガ秀実/2006年/筑摩書房/新書

1968年1968年がいっぱい詰まった本。

僕の場合、立花隆『中核 VS 革マル』という本を読んで以来、ちょっとだけマル共趣味者になってしまい、かつての全共闘や新左翼の本をたまに読んだりしている。最近では小阪修平『 思想としての全共闘世代 』などを読んだ(まぁその程度)。この本もそのあたりの系譜に属している回想&自分ほめ本。しかも、現在の世界情勢や思想などとつなげて語っている点が面白かった。

特に面白かったのは次の2点。

1つは華青闘告発の話。僕にはちょっと想像しにくい話だが、全共闘な人たちの一部は「大きな物語」の再建を本気で夢見ていたらしい。そして、自分たちの革命が達成されれば多くのマイノリティたちの願いも成就すると思っていた。ところが差別発言を契機にして、在日韓国・朝鮮人のグループから「あなた達も抑圧する日本民族であって、真のマイノリティの声を代弁できる立場にない」というニュアンスの突込みを入れられて、「大きな物語」のベクトルにズレが生じてしまう。

新左翼(とりわけ諸党派)が内包している民族差別を告発するその言説は、やはり、本質主義的な衝撃として受け止められたと考えるべきだろう。それは、日本帝国主義を打倒すれば、あるいは、世界革命が成就すれば民族問題も解決するという新左翼的イデオロギー(社会構築主義!)に対する批判であった。だとすれば、それは革命を成就しても解決できない問題があるという含意をともなっていたからである。

こうして、闘争の最前線であり「主体」であることがアイデンティティともなっていた新左翼のナルシシズムが打ち砕かれ、彼らの「大きな物語」が偽史的なものに変化していく。よって、自覚のあるなしに関わらず彼らの想像力が、今で言うところのセカイ系的な想像力へと転換されていくわけだ。

もう1つはネオリベとトロツキストの話。この2つの言葉は今ではマジックワードと認定され、怪しげな言葉として流通しているそうな。ようするに、トロツキーが見た世界革命という夢は、グローバリズムが進むことによって(変奏的であるとはいえ)達成されているように受け止められているという話だ。

このことは、1968年前後に一国社会主義を支持した社会党や共産党のような旧来の左翼に別れを告げ、世界革命を夢見た新左翼たちの想像力が、きっちり現在と接続しているという自分褒めにも近いロジックである。

その一方で、政治色を脱色したベ平連の活動が再評価されていることに対して、著者は少しだけ手厳しい。現在は政治の衰退が著しい。そういう状況で多くの人が社会活動に参加する流れをつくるためには、ベ平連のような活動は一つのモデルとして再評価されてもいいという時代の空気に対して、著者はこう述べている。

今日、ベ平連に象徴される市民的反戦平和主義を再評価することは、何を意味するだろうか。それはむしろ、冷戦体制の崩壊とグローバル資本主義によって自明のこととされてしまった。もはや「政治」が機能しなくなったとシニカルに認識されるごとき、ポストポリティカルな状況における「革命」の不可能性と、資本主義の永遠性を追認するだけではないのか。その二つを承認してしまえば、後はアイロニカルに現状を肯定すること――アメリカのプラグマティズムの哲学者リチャード・ローティが言う「レベラル・アイロニズム」――しか出てきはしない。そこにあるのは、結局は何も変わりはしないというシニシズムだけである。

そんなわけで、1968年は今でも重要なキーワードであり、この時代に発せられた問いの答えはまだ提示されてないということなのだろう。たしかに、ポストモダンの話でもわりとよく出てくるタコツボ化というか、現状認識のループによるグズグズ感を何とかしたいという思いは、2010年にもなろうかという現在でも解決していないと考える人は多いしね。

とはいえ、僕にとっては、1968年を「豊かさのなかの革命」とか「資本主義の力に依拠することで遂行された「革命」だった」とか自戒的に述べられても、戦後民主主義=反戦平和主義への嫌悪する六八世代(全共闘世代)の心性を面倒くさいものとしか受け止められないというのが率直な感想だ。

しかも戦後史に目を向けると、セカイ系的(偽史的)な想像力というのは、新左翼だけでなく、一国社会主義を実現しようとしたスターリニズムの中にも、戦後民主主義の中にもあって、ゲームを比喩にするならば、どの選択肢を選んだとしてもセカイ系になることは避けられなかったのではないかと思うのだ。このへんは、僕があまりにも不勉強&頭が悪いため良くわからないが、そんな印象を強く抱いている。

ところで、この本の中で一番驚いたのは、太宰治が戦後すぐに共産党に再入党していると書かれていたことだ。最入党したということは、もともと共産党員だったわけで、その後に一度やめて再び入り直したということか(何で辞めたんだろ?)。やっぱり戦前の共産党はなかなか魅力的だったんだな。

Posted by Syun Osawa at 09:00