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2009年01月28日

民族とネイション

塩川伸明/2007年/岩波書店/新書

民族とネイション人間について最大公約数の集団を国民としたとき、その集団を形成しているものの概念をどう捉えるか? また、その集団は何を根拠にその集団への帰属意識を抱いているか? そのような問題がわかりやすくまとめられていた。

例えば、アメリカのような多民族国家と日本のようなおおよその単一民族国家では、国民意識と民族意識の重なり具合はかなり異なる。また、民族的なつながりを超えて、宗教や言語によって区分けされている国もあれば、宗教と言語が同じであっても別々に存在している国家もある。だから、ナショナリズムや愛国主義というものは、必ずしも一つの概念というわけではないようだ。日本に住んでいる僕には気がつきにくいところだった。

著者は民族(≧ネイション)の分布範囲を4つに分けている。

  1. ある民族の分布範囲よりも既存の国家のほうが小さく、複数国家分立状態である場合。
  2. ある民族の居住地域が他の民族を中心とする大きな国家の一部に包摂され、少数派となっている場合。
  3. ある民族の分布範囲と特定の国家の領土がほぼ重なっている場合。
  4. ある民族が広い空間的範囲にわたってさまざまな国に分散して居住しており、どの居住地でも少数派である場合。

日本は3に属するのだろう。こういう場合は、国民≒民族となるのでわかりやすい。1もまぁいいだろう。難しいのは2と4のような場合。2のような場合は、ある場所では少数派だが、別の場所では多数派になることもある。4の場合は、それぞれの地域では少数派でも、国家の枠組みを超えて繋がっている場合は少数派以上の力を持つこともあり得る。

コソボ紛争などを考えたとき、コソボを攻撃したセルビア人はコソボに住むアルバニア系住民にとっては多数派だが、アルバニア人、イスラム教圏といった枠組みで考えると、セルビア人のほうが少数派になってしまうのだ。このように弱者と強者が射程範囲の設定によって入れ替わる場合、そこで起こる紛争はよりいっそう複雑なものとなる。

「強者」でも「弱者」でもある集団が「自分たちは弱者だ」という自己意識に基づいて集団行動をとるとき、それは往々にして「過剰防衛」――他者の眼から見れば「過剰な攻撃」――になってしまう。このことは民族問題に限らず、より一般的に、「強者」と「弱者」、「加害者」と「犠牲者」の線引きの難しさという問題と重なり、アイデンティティ・ポリティクスの一般的な難問をなしている。
いま述べたのは、強者・弱者における重層的関係(「入れ子」あるいは「マトリョーシカ」構造)ないし逆転現象のことだが、もっといえば、そもそもエスニシティも民族も区切り方が一義的ではなく、どのような単位をひとまとまりと考えるべきか、「内」と「外」の境をどこに定めるかをめぐって争う余地がある。それでも、特定の区切り方が自明であるかに見える状況においては、そのように見えていること自体が相対的安定性の保障となる。しかし、まさしくその自明性が突き崩され、流動化すると、どのような単位でどのような自己主張をすべきかをめぐるヘゲモニー競争が不可避となる。このような状況を前にして、ここの勢力を「弱者」と「強者」に振り分けたり、一方を「進歩的」、他方を「反動的」と裁断したりすることは、「中立的な」認識ではなく、むしろ特定勢力への肩入れとなってしまう。

著者が「魔法使いの弟子」という比喩で表現しているように、このような事態は、例え最初は小さな火種であっても大きくなってしまい、誰もとめることができなくなってしまう。これは山火事ともよく似ている。

世の中には、ある特定への集団への帰属意識を高めるために敵を強く意識させ、そのことを強く煽り立てる人間がいる。そういう連中を放置すれば、事態はエスカレートして煽り立てた人間にもそれをコントロールすることが不可能になってしまう。だからこそ、ナショナリスティックな感情が他者への攻撃の形をとろうとするときは、早い段階でその循環を止める必要がある。ネット上での不毛な煽りあいが終わらない原因もこういった状況にそのまま当てはまってしまうから不思議だ。

この本ではさらに、社会主義化のナショナリズムの話や大日本帝国が多民族国家を意識していた話など、「国民≧ネイション≧民族≧エスニシティ」に絡んだ話が満載で面白かった。

アメリカでは自由主義が生活様式そのものとなり、そのことが、逆説的な表現だが「教条的な自由主義」「自由主義の絶対主義化」自由主義的画一性」等の現象を生み出したとの指摘があるが(ハーツ『アメリカ自由主義の伝統』)、これは「自由主義」のナショナリズム・イデオロギー化とも言い換えることができる。「普遍性」の標榜が国民統合の軸となり、特異なナショナリズムの原理となったのは、ある意味でかつてのソ連とも似たところがある。それは「革命によって建国された国」という共通性があるためであり、単なる偶然ではない。

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Posted by Syun Osawa at 01:48