bemod

2009年02月04日

サブカル・ニッポンの新自由主義

鈴木謙介/2008年/筑摩書房/新書

サブカル・ニッポンの新自由主義鈴木謙介さんの単著を読むのは初めてかもしれない。タイトルに興味のある言葉がいろいろ並んでいたので読んでみたのだが、なんだか頭の中がスッキリしないというか、煮えきれないまま読み終えた。煮え切らなかった一番の原因は、彼が考える「価値判断のモード」が抽象的過ぎて上手く飲み込めなかったせいだと思う。

とりあえず、勉強になったところ、賛同できるところ、わからないところ、納得できないところなどいろいろあったので、今後のためにも気になった点を断片的に書き留めておこうかなと…。まぁ、今後のためって何やねんな? って話ではあるんですがw あと、取りとめのないつっこみ形式な書き方に深い意味はない。

正社員志向とロスジェネについて

若者たちの中に燻る強い正社員志向は、「自分たちにも、お前達と同じ地位と安定を保証しろ」という願望の表れだろう。だが、それが叶わない望みだとわかったとき、それは容易に「じゃあお前達が代わりに不幸になれ」というロジックへと反転する。

そもそも正社員を希望しているのは若い人間だけの話ではない。求職中の多くの人が派遣よりも正社員を希望しているのは、将来への不安を考えれば当然の行動だろう。にも関わらず、若い人間が正社員になれないことへの恨みが団塊の世代への恨みへと反転しているというロジックを拡大し、次のように心情を読み取っている。

自分たちは本来、こんな目に遭うはずがなかった。現在の境遇は、「既得権」に居座っている連中が、地位と資源を独占しているからに違いない。それは、本来なら自分たちが持っているべきものである。だから、それをよこせ、と。

これは、ロスジェネ論壇を念頭に入れたものだろうか。ロスジェネ論壇はそれほど好きではないが、この書き方だと彼らの言い分があまりに頭の悪いものに仕立て上げられており、ちょっと可哀想な気がした。そもそも、ロスジェネ論壇的な発言そのものがロスジェネ世代の中でもマイノリティなわけで、価値判断のモードを扱うには視野が狭いようにも思う。

セーフティーネットについて

日本という社会を生きていくのに必要なラインを政策的に定めた上で、それ以下であれば無条件で生活が保障されるという当たり前のセーフティーネットを構築するという議論へと話の主軸がスライドしていけば、こうした不幸自慢とは距離を置いた――したがって誰にとっても納得可能な――貧困対策が可能になる。

セーフティーネットに関して言うと、個人的にはあるラインを設けることにこそ問題があるのだと感じている。実際には年金の免除/半額免除制度なども含めてボーダーラインが設けられているが、ボーダーよりも少し上の人と下の人で保障の有無が全然違ったものになってしまうことは不幸なことのように思える。むしろラインを設けるのではなく、低所得者層ほど保障の割合をグラデーションにして、線を引かない方法で決め細やかな保障をすべきではないだろうか。

1968年とアナーキズムについて

判断のモード=イデオロギーをいかにしてラディカルに乗り越えるか。世界的にはそれは、新自由主義に飲み込まれてしまった六八年の理想、つまり「アナーキズム」の呼び出しによる「オルタナティブな(もう一つの)世界」の可能性へと差し向けられている。

新自由主義とトロツキスト、アナーキズムの関係性や、1968年との関わりを指摘する話はスガ秀実『 1968年 』の延長線にある話だろうか。上記のセーフティーネットとの関連で指摘した保障されない人の問題について次のように書かれている。

イデオロギーとしての新自由主義の問題点は、「もはや他に道はない」と人々に思いこませるという点にあるのだった。このことは、現実の体制としての「新自由主義」が、多くの人を社会的に排除することや、そうした人々への共感を欠いていくことを問題視しないということを意味するのではない。むしろ、新自由主義が純化されるほど「貧困や格差の固定化だけが問題で、あとは自己責任でかまわない」といった形で、生存保障のためのセーフティーネットが整備される一方、ぎりぎりの困窮状態にないものへのサポートは不要とされていく。そこでは、誰もが「自己責任」を求められ、敗北すればただちに転落する可能性があるのだが、セーフティーネットのおかげで「敗北死」すら許されず、再び自己責任による競争のリングに上がることを要求されるのである。

「セーフティーネットのおかげで「敗北死」すら許されず」というところが一番分からないのだけど、このあたりを読みすすめていて気づいたことがある。この本で語りかけている読者はもしかしたら限られているのかもしれないということだ。具体的には、「ぎりぎりの困窮状態にない」が悩みを抱えている若者。しかも、人文系でちょっとナヨッとしたサブカル系男女…いや、わからないけど。ともかくこのあたりの文章も視点が少しずつズラされていて、僕には難しすぎる。

幸せ感について

宇多田ヒカルは「幸せにして」と歌わず「幸せになろう」と歌うかもしれないが、彼女よりさらに若いチャットモンチーは「幸せになりたい」と願望を告白するのだ。その代表例が、一年後の私も変わらずにフラれた彼氏にわがままを言い続ける『橙』という曲にあらわれている。そして、これは『恋空』について「ビルドゥングスロマンがない世界」と言った中森明夫の話にも通じているだろう。幸せになるために主体的に動くことそれ自体に困難さがある以上、彼らの叫び声は「幸せになろう/幸せにして」という判断以前の苦悩として受け止めるべきだと思う。

自分褒めのロジックについて

気になる点を引用して、印象を述べているだけなので、悪意も何もない。念のため。

「サブカルの政治化」は、状況を悪化させかねない。よって私の立場は、いかに不謹慎で不真面目であろうとも、消費社会的な価値の蔓延するこの「サブカル・ニッポン」を肯定し、それを元手に現在の状況を突破しようとするものになる。
不安定でどうなるかわからないからこそ、誰かと笑い合うこと、幸せになろうとすること、そのためのリソースとしてサブカルチャーにコミットするという態度も、また否定されるべきではない、というのが私の立場だ。それがいかに「不真面目」な態度と映じようとも、そうした社会のほうが間違いなく「幸福」であるという信念は、二〇代の頃から変わらなかったように思う。

僕のように、属性としては「オタク」に属するのだろうと何となく自覚しながら生きてきている人間にとって、こういう表現はとても謎である。というのもオタクに属するというレイヤーは、社会の問題を論じることとは別のレイヤーだと思ってきたからだ。そもそも、誰がサブカルチャーにコミットしている人を「不真面目」などと言うのか?

マイノリティへの視線について

個人的にはこの部分が一番読みたかった部分だ。これは前述したサブカルチャーにコミットすることやロスジェネやセーフティーネットの話とも繋がる。ザックリ言ってしまうと、貧困状態にはないが、社会への不安を抱えながら生きている若者の帰属先として「ジモト」を挙げている。

ここで示される「ジモト」は地理的な境界というよりは、ある領域の中で培われた関係に基礎づけられた「物語」の位相であり、そして常に生きられることによってしか確認されないような、理念的なものである。

このジモトという概念は、団塊の世代の既得権批判によって不安を解消しようとするロスジェネ論壇的な帰属先とはニュアンスの異なるものとして提示されている。

自分を受け入れてくれる人間関係の中で生きられることによって可能になるジモトは、自己啓発セミナー的なカーニヴァルの資源というよりは、酷薄な競争を強いる外の世界に対して挑戦するための足場であり、そこで敗れたときにも自分を迎え入れてくれる「帰るべき場所」である。

ひどく当たり前の話に思えるが、著者があえてこの点を強調しているのは、彼が弱虫=弱者として生きている若者が、そのシンプルなことを見落としているように感じているからだろう。そして、弱虫のままの自分を受け入れてくれる場所としてジモトを挙げているのだ。

『市場の競争を生き抜く能力を開発し、自己啓発を怠らない人間であれ』というマチズモ(マッチョであること)に対して、「弱虫」であることを承認する領域でもあり得るということを想定している。

ただ少し気になる点は、オタク(サブカルでもいいが)的な趣味を持っている人間が、社会への不安から逃れるために、趣味的な世界あるいは場所へ閉じこもっているような印象操作を先に行っている点である。

外側の現実は、いやおうなしに若者たちに成熟と自己啓発と能力開発を要求し、それができずに趣味の世界に耽溺するものを、容赦なく弱虫呼ばわりする。

オタク=派遣社員=マイノリティという受け止め方は、少々2ちゃんねるとhatenaの見過ぎじゃなかろうか。ともかく、著者はそういう状況を肯定し、その帰属場所で笑いあいながら承認しあうことで、再び市場の酷薄な関係の中で生きていくためのパワーを回復することを提案している。

このことは、僕がストレス解消のためにボクシングをやっている事や、そこで次第に知り合いが増えてさらに楽しいというような事とも同じような話だし、親父が山岳会に入って毎週登山を楽しんでいるようなこととも同じ話だ。つまり世間一般すごく当たり前の話である。そしてそれは、たとえネットを通じたコミュニティであっても同様だろう。そんな当たり前の話が、難しい言葉で言い換えられているだけという印象を、僕はずっと抱き続けてしまった。「オチはそれかよ…」みたいなね。

市場の競争社会が「弱虫」と呼ぶであろう人々を「タフ」に生かす承認の共同体、アナーキズムの理想であり、それが市場の酷薄な関係を食い破る可能性だった。
互いに承認し合うアナーキーな関係が、無根拠な精神的カンフル剤ではなく、しっかりとした存在論的安心の足場となるためには、その可能性を見据え、適切に育てていくリーダーやコーディネータの存在が欠かせないものになるだろう。こうした人々の持つ意味も、近年の地域研究の中で明らかになりつつある。

そして「リーダー」や「コーディネータ」の存在の強調。これは自分褒めロジックにも繋がる話なのだが、読書感想文をとめどなく書き続けるのに疲れたので、もうやめておく。いつになく長文になってしまったな。

ともかく、この本の趣旨は次の通りである。

私達の価値判断基準のモードとして抽象的に捉え、その対抗軸となり得るモードを探すことにある。

やっぱり、僕には難し過ぎたようだ。

Posted by Syun Osawa at 01:56