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2009年02月24日

メディア芸術祭:アニメ部門受賞者シンポジウム

2009年2月7日/13:00−14:30/国立新美術館 3F 講堂

加藤久仁生、湯浅政明、木村卓、鈴木伸一というある意味レアで不思議な組み合わせのシンポジウムだった。というのも、司会をしていた鈴木伸一さんを含めて、登壇した全員がクリエイターだったからだ。そのため言葉の応報で盛り上がるということは少なかったが、その一方で、クリエイター同士の会話でしかなされないような製作時のマニアックな話を聞くことができた。

特に興味深かったのは、個人で作品を作ることと集団で作品を作ることの違いについての話と、作品を作り続けるモチベーションをいかに保つかという話だ。加藤さんの今回の受賞作『つみきのいえ』は15名程度のスタッフで製作されていたそうな。僕の記憶では『或る旅人の日記』の途中から少人数の製作体制になったと記憶しているが、今回の作品が今までの中で一番大人数で制作したということだった。

大人数でつくることについて、『カイバ』の監督・湯浅政明さんは「スキルのある人にはある程度自由にやってもらっている」と話されていたのが印象的だった。作品のイメージをうまく共有できれば、スタッフの意識は当然イメージの完成形へと向かっていくわけだから、おのずと作品めいたものになっていく。その形成過程をどのて程度監督がコントロールするかというところにも個人差がでるのだろう。

モチベーションの話は先日の 思想地図シンポジウム にも繋がる話だった。個人製作で作っている場合は納期がない。しかも、コンピュータを用いた制作ではやり直しが無制限にできるために、どこをもって「完成」とするかという決断が難しくなる。思想地図シンポジウム的に言うなら切断面をどのように決めるかという話だが、その点について木村卓さんは「自分の作品として許せるかどうか」を基準にしていると話されていた。この許せるかどうかという部分はとても重要な気がする。そして、このことはニコニコ動画に動画をうpしている職人についてだって同じことが言えるだろう。

ニコニコ動画の中で公開されている作品にだって当然作家性が宿っている。切断面の問題と二次創作の進化をマクロ的に捉えて、作家性それ自体が極めて薄くなっている、もしくは変奏しているという指摘は一部で納得できる。しかしながら、過剰な読みによって「作家性というものが存在しない」とまでしてしまうのは、かつて東浩紀さんが『デ・ジ・キャラット』のキャラをデータベースの組み合わせと言い切ってしまったのと同じ暴力性を含んでいて、少し疑問を感じ始めている今日この頃である。話が逸れた。

Posted by Syun Osawa at 00:46