bemod

2009年07月05日

新左翼とロスジェネ

鈴木英生/2009年/集英社/新書

新左翼とロスジェネ嘲笑芸で有名なゼロ年代批評家の語り口を真似るなら次のような感じかな。

68年はおろか70年代にも80年代にも新左翼運動に関われなかった新左翼かぶれの著者は、マル共趣味者としてまったり生きることでは自分のルサンチマンを克服することができなかったに違いない。そこで著者は新左翼運動の再検討によって同時代性を取り戻し、そこから生まれる新たな(再帰的な?)連帯の中に自分を見つけたいという実にはた迷惑な決断主義に支えられてこの本を書いたのだろう。

もちろん僕はそんなことは思っていない。ただ、新左翼的な思想と現在のロスジェネや貧困の話を「自分探し」でつなぎとめるという手法は、この手の揶揄からは逃れられないと思う。たぶん。

著者はこの本の目的を明快に「貧困」+「自分探し」→「連帯」と書いている。

僕自身ロスジェネ世代なので、脊髄反射的に同意しそうになる気分はあるのだが、僕には「自分探し」というやつが今もって何なのか理解できてないので、どうしてもモヤモヤとした思いが消えない。それでもある程度「こんな感じかな?」と想定して語るなら、貧困状態に陥っている人が求めているのは、「自分探し」というよりは「居場所探し」なのではないかと思う。

著者は「自分探し」のサブカテゴリとして「居場所探し」を置いているが、僕が言う「居場所探し」はホームレス状態に陥った人が寝る場所を探してさまようというレベルの居場所探しのことも含んでいる。つまり自分探しよりも緊急を要する重要な問題だと思うのだ。

「自分探し」というのは日本にありがちな心の問題に回収されやすいため、どんな歴史を参照しようとも最終的には議論が空転するだろう。なぜならこの問題に最適解など存在しないわけだから。だが、「居場所探し」は現実的な場所(もちろんこの場所には仮想空間も含んでいる)であるから最適解があるはずだ。

著者がいうゆるやかな連帯は僕自身もかなり興味を持っている。しかしながら、「自分探し」をスタートラインにして連帯を考えてしまっては、貧困の問題にとって重要な「溜め」としての「居場所」だったり、そこから生まれる連帯みたいなものまで不鮮明になってしまうように思えるのだ。だから、はた迷惑な話。と最初に言ってみたわけだ。

フリーターのことを考えればさらにわかりやすい。余裕の無いときは自分探しなんて思わない。ただ、居場所がほしいのは少しでも不安を解消したいからだ。フリーターを経て、サラリーマンになり、金銭的な余裕が出てくると溜めについて自分探しなんかと接続させて考えることもありかなと思えてくる。つまり、前者と後者では気持ちが同じではないのだ。大学生とか、お金に余裕のある人は自分探しでもいいだろう。そういう風に考えれば、多くの回想録がその事実を裏付けているともいえる。

反貧困 』の湯浅誠氏は「溜め」の必要性を強調しているが、決して心のつながりだけを重視してはいないように思える。著者はそのための方法論として「少しの自己否定論」というのを主張しているが、そうした自己否定論がやがて過激な自己否定論(左翼ってラディカル追及するじゃないw)に至って分裂や内ゲバが起きたことは誰もが知るところである。

Posted by Syun Osawa at 02:10