bemod

2009年07月09日

日本を滅ぼす教育論議

岡本薫/2006年/講談社/新書

日本を滅ぼす教育論議すごく納得した。

日本の教育はまさに「教育教」と言えるべきものである。そして、教育によって何でも解決してやろうという楽観的な未来感と、「心の教育」を軸にした「同質性の信仰」がこの宗教の教義を支えている。

僕はこの手の教育観に学生時代から疑問だった。教師は勉強を教えればいいと思っていたし、知識・技能を子供たちに習得させるための能力を磨くべきだと思っていたからだ。

ところが日本の教育では、教育の目的を「心」や「人格」に置いているケースが多いという。橋本大阪府知事も言うように、心の教育は本来、家庭や地域で行われるべきものであろう。ところが、「学校教育は心を養うものであり、知識・技能などのプラクティカルなものであってほしくない」という思い入れが世間に広く浸透しており、そのことによってイデオロギーが教育の中で重要な位置を占めてしまっているのだ。

特に、1992年に受験人口がピークに達して以降は、ゆとり教育との絡みもあって、心の問題に重点を置いた政治的なニュースが目立つようになった。卒業式における日の丸・君が代問題や、歴史教科書のごく一部の記述を取り上げて、右派と左派が延々と議論が繰り返すような状況は、教育で何でも解決したいと思う「教育教」内部の主導権争いのようでもある。

ただ、昨今はまた事情が変わってきているようだ。

2003年に行われたOECD(経済協力開発機構)によるPISA(国際学習到達度調査)で日本の成績が以前よりも低下したことから、ゆとり教育による学力低下が叫ばれるようになり、心の問題が少しだけ棚上げされている。

ここにきてようやく政治ではなく経済と教育を結びつけた形での議論が活発化してきたわけだが、その方向性について、福田誠治『 競争しても学力行き止まり 』ではズレがあることを指摘している。必ずしもいい方向に向かっているとばかりは言い切れないのだ。

このように、日本の教育行政は様々な勢力の思惑に引きずられながら、ゆらゆらと揺れ動き続けている。この迷走について、筆者はロジカルな議論がなされていないことが原因だと指摘している。そして、カルロス・ゴーン氏の発言から「目的と手段が混同されている」「目的が抽象的で具体性を欠く」「命令系統の支持が、『営業はもっとガンバレ』など、具体性を欠き背一新主義的」「将来のことを語るときに予測と希望が混同されている」などの言葉を引用し、まさにこれらのことが教育行政の問題に直結していると説明している。

まさにその通りだと思う。ただ、僕自身は学生時代に受けた教育で嫌な思いをしたことがないので、これまでの教育が酷かったという実感はない。イデオロギーと教育の結びつきについても、高校の先生が卒業式で「君が代」斉唱の時に歌わず着席していたという経験くらいで、それだって人それぞれだと思っていたし、他の生徒も同じように思っていただろう。

筆者の主張には大部分で同意するのだが、日本人の大部分が今後ロジカルに物を考えるようになるとは思えない。逆に、ロジカルでないことをベースにして日本という国は形作られているように思うので、欧米とは違ったタイプの方法論、「結果的に何となく上手くいっている(今まで上手くいっていたわけだから)からOK」といったタイプの教育のあり方についても肯定的に検討してもいいのかなという気もする。なぜなら、これまでの教育の成果として、長い間、学力が世界的に見ても高い水準で維持されてきたからだ。

Posted by Syun Osawa at 00:35