bemod

2009年09月02日

図説 だまし絵

谷川渥/1999年/河出新房新社/A5

図説 だまし絵奇想の王国 だまし絵展 の展示内容とこの本の内容はかなり重なっている。というか似過ぎ。それだけだまし絵の歴史は単線なのだろうか?

ただし、大きく違う点が1つだけある。それは、筆者がだまし絵とダブルイメージの絵を明確に分けている点である。著者にとってだまし絵とは、額縁が絵画の中に描き込まれた絵画のように、絵の仕組みとしては見る者をだまそうとしているものの、結果だまされない絵のことである。一方、ダブルイメージの絵というのは、エッシャーの無限階段やアルチンボルドの野菜が集まってできた人物のように、一つの対象から二つのイメージを読み取れる絵のことである。

この本では、ダブルイメージの絵を省いた狭義のだまし絵について解説している。奇想の王国 だまし絵展 の感想でも少し書いたが、狭義のだまし絵は余興としては楽しいが、ガッツリ見るには物足りない感じがする。これが僕の素朴な感想。

ところが、狭義のだまし絵について、絵の外側をどこまで絵の中に取り込むかという部分に焦点を当てて語ると、何だか凄く高尚な感じがして、語りのため(批評のため?)の絵としては大きな役割を果たしているようにも思える。実際、だまし絵のフレームの話は現代批評家も参照しているし、このことが、昨今のサブカルチャーにおける批評空間とも重なっているようにも思えるのだ。

例えば、『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンはアニメの登場人物でありながら、ハルヒや長門の行動に心の声でつっこみを入れ続ける。これは、『ちびまる子ちゃん』で言うところのナレーターの役回りである。『ちびまる子ちゃん』のナレーターは、視聴者の側に寄り添った存在として成立していて、そうであるがゆえにまる子達が住む世界はより一層劇的な空間として意識される。つまり、『ちびまる子ちゃん』のナレーターは、アニメの中にいながら外部の役割を果たしている点で、狭義のだまし絵的なのだ。

一方、『ハルヒ』のキョンはその点が非常に曖昧になっている。『ハルヒ』ではその外部の役割が作品世界に溶け込んでいて、作品の輪郭はより一層危ういものになっている。

…とまあ、こんな風に、作品の具体的な内容からは離れた語りがサブカルチャーの批評では横行しているように感じられる。僕はそうした構造や形式ばかりで読み取られる批評が流行する状況はあまり好きではない。というのも、これらの語りはだまし絵が誘発している語りであるからだ。

早い話が、高尚な感じはするがどこか物足りないのだ。美術の世界では、だまし絵は一つの世界を形作っているとはいえ傍流であろう。美術の世界には本流が別にある(きっとあるw)。サブカルチャーの批評がだまし絵的な語りの空間に吸い寄せられていると妄想すれば、では一体、本流はどこにあるのか? と、僕は思うのだ。サブカルチャーだから傍流でいいという話でもない。

この本に出てくるだまし絵の中では、ヘイスブレヒツ《画架》などは一つの極点のようにも思えるが、彼と同世代の画家であれば、ブリューゲルの絵を見ているほうが僕は好きだ。ブリューゲルの絵が語りを誘発するかどうかは別にして、僕はただ好きなのである。

Posted by Syun Osawa at 00:55