bemod

2009年09月08日

暴走する世界−グローバリゼーションは何をどう変えるか

アンソニー・ギデンズ/訳:佐和隆光/2001年/ダイヤモンド社/四六

暴走する世界 ― グローバリゼーションは何をどう変えるのかグローバリゼーションはエントロピー増大と同様に不可逆のものであって、反グローバリゼーションというのは不可能を要求しているに過ぎない。よって、グローバリゼーションの是非を問うのではなく、不可避のものとして上手く操作することが重要だよ、というような事が書かれていた。Amazonのレビューを見ると、内容はともかく翻訳に対する評価が低い。たしかに読みにくい感じはしたが、学生向けに書かれた本らしいので、内容的には僕にもわかりやすいものだった。

著者は、リスクを外部リスクと人工リスクに分け、グローバリゼーションにおけるリスクの大部分は人工リスクだと指摘している。著者のいう外部リスクとは、未来永劫変わることのない伝統や自然に起因するリスクであり、人工リスクとは、外部世界に関する人間の知識が深化することにより生じるリスクである。地球温暖化や株の大暴落などの人工リスクは人の営みの中で生じたものであるから、コントロール可能なのかというと、そうではないのだ。

苅谷剛彦『 学力と階層 』の感想の最後にも書いたが、現在のグローバリゼーションの状況を乗客全員の座席にハンドルがついたバスが地球だと考えれば、その行方が極めて曖昧であり、人々が不安定な心理状態に追い込まれることは明白である。にも関わらず、自己責任論の声は高まり続けている。何でも自分で選択しましょうというのは一見正しいが、そもそも最初の選択の根拠自体が曖昧なわけだし、人工リスクについても個人の問題にだけ還元されるわけではない。ところが、自己責任論は常に個人による選択を要求する。そして、そのようにして選択された根拠のないライフスタイルや習慣によって、自分自身が硬直化するという悪循環のループが引き起こされているのだ。

どうせ根拠がないのならスピリチュアルな根拠でも等価だろうということで、メシア待望論が持ち上がっても不思議ではないし、ベタな伝統への回帰やファシズムの再興を期待する声が起こることもそれなりに納得できる。しかし当然それではよくないわけで、僕達は不安を引き受けながら著者の言う「日常生活における情念の民主主義」そして「民主主義の民主化」を黙々と追い求めるべきなのだと思う。

この本が書かれた頃から2006年頃まで、イギリスの土地の値段は上がり続けていた。さらに、著者を思想的ブレーンに抱えたブレア首相が退陣するまでの間、イギリスは内需拡大を続けていたこともあって、不安定ながらも差し込む光はそれなりに明るかったと思う。しかし、今はその光さえ弱くなっている。

こういう本を読んで、状況整理だけをベタにやると、何だかテンションが下がってくる。そら「投資でも始めるか…」って、誰でも思うわなw だって世界市場全体に投資するということは、グローバリゼーションを不可避なものとして受け入れて、その全体の成長性に自分の運命を預けることに他ならないわけだし。ある種の信仰みたいなものである。

Posted by Syun Osawa at 00:09