bemod

2009年10月29日

「共同だからこそできる表現」漫画原作者 長崎尚志

2009年10月25日/14:00−16:00/森下文化センター

「共同だからこそできる表現」第3回 漫画原作者 長崎尚志前回の さいとう・たかを氏の公開講座(聞き手は中野晴行氏)に続いて参加した。今回は漫画原作者の長崎尚志氏の公開講座(聞き手は漫画評論家の夏目房之介氏)。地味な場所でやっているイベントにしては、出演者が豪華すぎw

長崎氏は小学館で編集者として活躍した後、漫画原作者として独立した方で、講談社の樹林伸氏と並んでスーパー編集者と呼ばれている。彼らの凄いところは、出版社勤務時代から、編集者の枠を超えて、作品のストーリーに深く関わっていることで、ときにはペンネームで原作までこなしていた。そうした振る舞いは、彼らの才能によるところがほとんどだと思うのだが、長崎氏の話によると、小学館の漫画編集者は、新入社員の頃に脚本形式のネームの切り方を訓練させられるそうな。また、現場では、当時担当していたさいとう・たかを氏から多くの漫画原作に関するイロハを学んだという。

さいとう・たかを氏は漫画製作の分業化(そのあたりの話は 前回の公開講座 を参照)を推進したことで有名である。そんなさいとうプロでも、脚本は基本的に買い切りのため、脚本家の立場が少し弱いと、長崎氏が指摘していた。その点は編集者も同様で、どれだけストーリーに深く関わっていたとしても、月給以上の報酬を得ることはできないのだ。だからこそ、長崎氏は小学館を退社し、フリーの漫画原作者として独立したわけだが、この流れに続く編集者はほとんどいなかったらしい(年収1千万越えの会社をポンと辞める人はそうはいないよね)。

ここから少し話がややこしくなるが、上で書いた「ストーリーに深く関わる」という部分は、曖昧なニュアンスを含んでいる。単純に原作があって、そのストーリーをもとにして漫画を描いたのなら話は簡単なのだ。しかし、彼らの仕事というのは、ときには別に原作者がいるにも関わらず、編集の段階でストーリーを改変する場合もあれば、漫画家の切るネームの段階で大きな修正を要求する場合もあり、はっきりと線引きをすることが難しい。こうした曖昧な関わり方が生まれる原因はただ一つ、完成した漫画を面白くすることを目的としているからである。そのために、自分が考えたストーリーであっても、引っ込めたり押し込んだりすることができる点が彼らの最大の強みなのだろう。そう考えると、漫画原作者と漫画家の間にある余剰を、編集的なセンスで上手く埋められるかということが、作品を強くする(面白くする)鍵なのかもしれない。

今回の講座では、出版業界の現状と、昨今流行しているケータイ漫画についても言及されていた。

自身の経験則からアンケート至上主義やマーケティングではヒット作が出たことがないらしく、コストパフォーマンスを考えると、新人漫画家と編集者という組み合わせが一番リスクが低くコストも安く済むそうな。そこへいろんな専門家が割って入ってくることで、平均化され序列化されつまらないものになってしまう。ようするに、漫画家と読者の間にいるのは、究極の話、編集者だけでいいわけだ。これはすごく納得。ところが、『このマンガがすごい』のようなミシュラン雑誌だったり、売り上げランキングだったり、漫画批評だったりが、漫画と読者の間に入ってくることで作品の二極化が進み、中間領域の漫画たちが排除される傾向にある。漫画文化を底上げしようとしているこのような行いが、漫画がこれまで持っていた大衆文化のカオスなエネルギーを奪い去っているのだとしたらなんとも皮肉な話である。

また、ケータイ漫画の伸びは著しいが、見せ方などの点で明らかに漫画とは異なっていることを指摘した上で、今はケータイでチラッと読んで面白ければ、漫画本を買うという流れが強いと話されていた。あと、ケータイの小さな枠に収まるような絵を漫画家が描きたいのかどうか、という点を指摘されていたのは、さすがは漫画編集者だなと思った。

Posted by Syun Osawa at 00:28