bemod

2009年12月04日

考える技術としての統計学

飯田泰之/2007年/日本放送出版協会/四六

考える技術としての統計学冒頭に「統計学の教科書ではありません」と言いつつ、わりと丁寧に経済学の導入部分を解説してくれているあたりが今っぽい。飛行機は自動車より安全な乗り物だ、なぜなら飛行機はほとんど墜落しないし、日常的には自動車の事故のほうが多いからである…といった定説を真に受けていた僕には、この本はまずまずいい思考の体操になったと思う。

特に箱ひげ図(ローソクチャートみたいなの)の説明や、区間推計による95パーセント確実な予測の話などは面白かった。統計情報から読み取れるものがどれくらい確実なのかということについて、より具体的な数字で把握できるようになったのが嬉しい。これは将来を考えるときのリスクヘッジとしてなかなか使えそうだ。

とはいえ、統計技法というのは、どれも世の中にあふれる情報を縮約する方法なわけで、それらの情報を取捨選択している段階で少なからぬ量の情報を捨ててしまっているわけだ。計算式を用いた数値的な置き換えは、一見すると、そこに人為的な操作が入らないように見えるので、経済の事などまるで知らない僕などは、盲目的に信じてしまう可能性がある。

僕は投資を少しだけやっているので、これには気をつけないといけない。以前、よく読んでいた投資関連の本にも統計情報は当てにならないというようなことが頻繁に書かれていたし、この本でも経済学者自らが投資の役には立たないと書いてしまっている。まぁ…この本を読んだだけで、素人がデータを統計的に扱って投資を有利に持ち込むことなんてできるわけがないし、金融工学のプロに勝てるわけもない。そうなると、「この手の本を読む投資者は、この本を読んでいかなる感想を抱いたか?」という心理を読むことに注力したほうが、まだ少しは実りがあるだろう。

というわけで、投資にはあまり役に立たないらしいので、この本のもう一つのテーマである「考える技術」について考えてみることにする。こちらのテーマについては、著者の考え方に少し違和感があった。著者は、演繹法は正しさがあらかじめ保障されているから新しい予定調和にしか思考が進まず、新しい発想を生み出すことはできないと言っており、新しい発想を生み出すためには、帰納法から導かれるデータのうち、普通ではないデータに注目するのがいいと書いている。

手塚治虫氏は、この演繹法と帰納法の評価が飯田氏とはまったく逆である(仮説演繹法など論点は若干ズレているが…)。手塚氏は帰納法だと、ストーリーが構造的に作りこむために(例:オチから逆算して考える)、構造自体に面白さがあっても、キャラクターはそのオチに向かって動いていくわけだから、キャラクターは立たないと言っている。キャラクターが立つことが面白さに繋がるというところが、この本の発想法にはないまた別の論点なわけだけど、このキャラクターに宿る思考も無視できないのではないか。

てな具合に、手塚氏のキャラクター論に飯田氏の話を強引に接続すると、この本で書かれているところの「演繹法が持っている100%の正しさ」というのは、実は「100%の信念」みたいなもので、つまりそこにあるのは思いの強さだと考えることはできないだろうか。その強さが行き当たりばったりにドッカン、ドッカンとブチ当たりながら突き進むほうが漫画的には面白いものになるというのが、手塚氏の考えの一つでもあるのだろう。

また、漫画原作者の長崎尚志氏も トークイベント で、アンケートの集計結果から作品を作っていく方法論について、「何度かやってみたが上手くいかなかった」と述べており、その理由を「なぜだかはわからない。とにかく上手くいかなかった」としていた。以上のように、漫画界の重鎮たちが、作品を発想する思考法として帰納法より演繹法が採用しているのは、ロジックではなく経験則によるのだろう。僕自身も、手塚氏や長崎氏の考え方のほうが、実態を上手く表現していると思う。

とはいえ、発想が新しいということと、大衆に面白いと受け入れられるということはやはり違うので、この話は少々強引過ぎたかもしれない。でも、この本はビジネスマンに向けても書かれているし、新しい発想とうたわれている部分は、新しいがゆえに大衆に受けいれられるというニュアンスがこの本の主張にも含まれているので、あながち外れていない気もする。うーむ。そんなことを考えていると、結局のところ「新しい発想って何ですか?」っていうところに戻されてしまうので、またいつもの冴えないループを繰り返すだけなのであった。

Posted by Syun Osawa at 00:22