bemod

2009年12月10日

ウィキペディア・レボリューション

アンドリュー・リー/訳:千葉敏生/2009年/早川書房/新書

ウィキペディア・レボリューションカッシーラー『 ジャン=ジャック・ルソー問題 』を読んだ後、ウェブ2.0に代表される創発的なシステムの構築に興味を持ったので、そのことを最もわかりやすく体現していると思われる Wikipedia の本(つまりこの本)を読んだ。

Wikipediaは企業の社員が作り上げたものではなく、膨大な数のユーザーが無償で手を貸すことによって作り上げられたコンテンツである。手を貸したユーザーは、その行為によって金銭的に得するわけでもなければ、注目を浴びて象徴資本を手に入れるわけでもない。にもかかわらず、多くのユーザーが参加するのは、「社会心理学的な報酬と快楽主義的な自己満足」を求めているからで、ベタな言葉を借りれば「One for all, and all for one」の精神が彼らを突き動かす原動力になっているわけである。

この力は大変強力で、ウェブにおけるコンテンツ構築の要にもなっている。しかし、ひとたび企業がこの力を利用しようとすると、たちまちその力は失われてしまう。過去にWikipediaでも広告の掲載を検討した時期があったそうだが、多くのユーザーから反発があり、広告収入による運営モデルは見送った。そういえば昔、livedoorブログで、ブログに書かれた内容をlivedoorが自由に使っていいという規約を設けたために多くの反発があり騒動となったが、あれなども似たような事例だろう。僕も含め、こうした創発的なコンテンツに参加するユーザーは、営利目的の匂いをとても嫌う傾向にあるのだ。

しかしまぁ…この手の「ウェブコンテンツは無料」といった価値観の押し付けに対する議論は、2000年代前半に散々やり尽くされた感があって、それほど目新しい話ではないだろう。そもそもWikipediaの情報というのは一次情報ではないわけで、どこかの商業コンテンツの情報をもとにしている場合がほとんどだ(つまり無料ではない)。悪い言い方をすれば、ウェブ2.0時代というのは、「いかにして既存の商業コンテンツや、ユーザーたちの無償の貢献を拝借して利益をあげるか?」というビジネスモデルばかりを追求しているため、たとえ枝葉の量が増えたとしても、それを支える根っこの強度は少しも上がっていないのである。

僕が興味を持ったのは、その次の話だ。

誰もが自由に参加できるWikipediaであっても、その情報量は無限に伸びていくわけではなく、必ずどこかで頭打ちする。この本によると、Wikipediaも少しずつその臨界点に達しかけているそうで、今後、減少していく可能性もあるようだ。もしも参加ユーザーが減少に転じた後はどうなるのだろうか。人がわらわらと集まってきているからこそ、創発的なエネルギーというのは生まれていたわけで、その「伸びている」という上昇感覚がなくなったとき、そのコミュニティはただの残骸と化すのだろうか。

現在は、Wikipedia上に間違った情報が書かれたら、早いタイミングで訂正を入れる人が現れる。しかし、人がいなくなればそうした細やかなメンテナンスは行われず、荒らしやトロールたちへの対応も疎かになるので、結果として信頼性は著しく低下することになるだろう。いまや超巨大コンテンツとなったWikipediaでさえ、創発的なエネルギーが奪われた後に、その力が維持される保障はどこにもないのである。

ここで強引に話をスイングバイして、カッシーラー『 ジャン=ジャック・ルソー問題 』あたりに戻ってみる(このエントリも無駄に長いな…w)。

この本を読むと、ひとくちにWikipediaと言っても、各国でその創発の状況が異なるようである。日本の場合は、大量の記事を執筆するウィキマニアの数が少なく、また、プログラムを利用した一括投稿のようなものもほとんど行われていないらしい。にもかかわらず、投稿された記事の数が世界でもトップクラスにあり続けているのは、多くの匿名ユーザー達がコツコツと記事を投稿し続け、その数を地道に増やしているからだ。

著者はこの状況を「神秘的」と表現している。このように匿名でありながら官僚のような統制力を発揮するのが日本の創発だと考えると、カッシーラー『 ジャン=ジャック・ルソー問題 』の感想文の後半で書いた内容(東浩紀氏と一般意思2.0の話)というのは、椹木野衣氏の「悪い場所」問題を迂回しつつ進む、かなりトリッキーな展開になるのではないかという気がしてきた。結構楽しみである。

あと一つ。この本の中でWikipediaの対抗馬としてたびたび言及されたマイクロソフトの「取り入れて拡張(embrace and extend)」という考え方は、フリーの概念とは別に、ゼロ年代に流行したもう一つの大きな潮流ではないだろうか(Youtubeに対するニコニコ動画なども含む)。サブカルチャー系の思想も、その考え方に大きな影響を受けたと思う。

東浩紀氏がゼロアカの動画の中で、「思想の社会学化が進んでいる」と言っていたように、現在、流行の思想というのは、新しい地平を孤独に追い求めるものではなくなっている。むしろそういう行為をはじめから放棄し、評価の定まった既存のものに食いついて、それを拡張することで優位に立とうという考えの人たちが、ゼロ年代の勝者になったのだ。

Posted by Syun Osawa at 00:08