bemod

2010年01月09日

マトリックス・レボリューションズ

監督:ラリー・ウォシャウスキー、アンディ・ウォシャウスキー/2003年/アメリカ

マトリックス・レボリューションズ前作『 マトリックス・リローデッド 』のアクションもヤバかったが、本作オープニングのガンアクションシーンもまたまた神だった。逆さまになった敵と撃ち合うとか、設定斬新すぎるw

まぁ、そこまではよかったんだが…。

前作までで、世界設定を開陳するという作業もある程度終わっていたので、その手の謎解きっぽい引きはなくなっている。となると、後は全面戦争としての戦いを派手に演出するというところに力が注がれるのは仕方ない。だから、話の展開としてはとても真っ当に作られていたように思うのだが、如何せん僕の想像力が人間の最後の塞「ザイオン」を死守する人とロボットの戦争に感情移入しきれなかったせいか、いま一歩盛り上がりに欠けてしまった。

このマトリックスの世界設定は、インターネットの世界と現実世界の二重構造を比喩として取り込んでいる。そして、ネオ達を追いかけるエージェントのスミスは、「私、私、私…」と無数の私が増殖されていく。これはコンピューター・ウィルスでもあるし、アイデンティティの喪失した実存なき私達自身のようでもある。そんな私の増殖によって、仮想空間は複雑になり、臨界点に達していく。ネオ達は空を飛ぶなどの人間以上の能力を兼ね備えているが、それでも世界そのものの変革には抗うことが出来ない。なぜなら自分もまたコンテンツの一部に過ぎないからだ。これもまたインターネット的である。

唯一違ったのは、その世界の変革を試みるときに、ソースの層を何やらすれば、世界は救われるという救世主の思想を残している点だった。ネオは最終的に、救世主としてコンテンツの側からソースの層へと向かい、そして世界を救ってしまう。ここに物語の素晴らしさを見つける人は多いのかもしれないが、インターネットにはそんな救世主は現れない。Googleのようなモンスターがより巨大化し、世界をさらに不安定にさせているだけである。しかもGoogleのようなCMS(コンテンツマネージメントシステム)的な立場は、この映画では表現されていない。

前作『 マトリックス・リローデッド 』では、ネオはソースの層(プログラム)ではなく、コンテンツの層(仮想現実)へ行くという決断をし、その信じる心こそが希望だという話だった。その選択はベタなものだったがそちらは共感できた。今回はその希望が適うという話で、そこまで行くとちょっと出来すぎかなと思う。一応、トリニティが死んだり、ネオが人間と救世主の間で揺れ動いたりもするのだが、結果としてスーパーパワーによって世界が何とかなるという結果は変わらない。むしろそこが何とかならないというところでの解決策を模索してもらえれば、さらに深みの増した作品になったように思う。

アクションシーンが神だった時点、瑣末な部分などどうでもいいわけだがw

Posted by Syun Osawa at 02:05