bemod

2010年01月18日

ウィリアム・ケントリッジ展

2010年1月2日−2月14日/東京国立近代美術館

ウィリアム・ケントリッジ展まさか東京国立近代美術館でアニメーションの展示を見ると思わなかったなぁ(部分的なビデオ・インスタレーションという意味ではなく、全面アニメーションの展覧会という意味で)。この展覧会の企画は京都国立近代美術館がつくったらしい。いいぞ京都w もっとやれw

とはいえ、気になる点がなかったわけでもない。何枚ものスクリーンを使うような空間的な仕掛けのあるアニメーションは、今回のような展示型式も悪くないと思うが、普通の映像作品は、劇場型のスクリーンで見せたほうがよかったのではないだろうか。一応、それぞれのスクリーンの音だけが聴けるように、外部レシーバーを渡されたのだが、ちょっとせわしない感じがした。

中身の話。

ウィリアム・ケントリッジの作品は完全に初見で、パッと見た感じでは、ロシア・アヴァンギャルドから社会主義リアリズム、ソッツアートへ至る変遷を全部取り込んでる感じだった。南アフリカ出身の作家で、アパルトヘイトの問題などを扱っていることもあって、ヤン・シュヴァンクマイエルの「スターリン主義の死」あたりの政治性も秘めていたのかもしれない。

この日、ジョン・テイラー氏の講演も聴いた。テイラー氏は、ケントリッジは西欧美術の文脈の中で、きっちり作品をつくっていると言っていて、上の認識はそれほど外れたものでもないのだと思う。

ただし、ロシア・アヴァンギャルドからプロパガンダ芸術への変遷の中核を担っていたのは、思想の問題であったと思うし、そこではロシアの暗部でもあったユダヤ人問題は覆い隠されていたはずだ。その一方で、ケントリッジは人種の問題を扱っている。しかも彼は白人であり、絶対的な抑圧者としての運命を背負っている。思想は転向できるが、彼の立場はそれが不可能である。そんなわけで、ロシアのプロパガンダ・アートをなぜモチーフにしたのかという核心部分が、最後まで上手く掴めないままだった。

このあたりは、作品の中にたびたび登場するケントリッジ自身の思い悩んでいる様子や、私の増殖によってアイデンティティが揺らがされている事態とも直結しているような気もするが、どうだろうか。うーむ。

後半のほうになると、だまし絵 に代表されるようなフレーム問題などを吸い上げている。絵を描く様子を撮った後、それを逆回転させたり、自分の自画像をリアルに描いて、それを実写にして動かしたり、他にも円鏡の動画化(個人的にはこれが一番良かった)とか、コンセプチュアルなことも結構やっている。他にも、ゴーゴリの「鼻」にチャレンジしていたりもして(「ノルシュティンさん涙目w」的な)、全体的にバラエティに富んだ素敵な展覧会だったと思う。

Posted by Syun Osawa at 01:03