bemod

2010年05月02日

「大人」がいない…

清水義範/2006年/筑摩書房/新書

「大人」がいない…サラリーマンをやっていると、職場で交わされる会話が幼稚に思うことがよくある。しかし、そのように聞こえるのは周りの問題ではなく、僕が欝っぽくなっていることのサインだと言われたりもして、実際のところよくわからない。そんなとき、ブックオフで偶然その問いに肉薄してそうなタイトルの本を見つけたので、思わず読んでみた。

大人が居ないという素朴な実感に関しては同意できるし、日本社会が抱えている未成熟な個人を良い面と悪い面の両方から捉えている点もその通りだと思う。特に後者は、東工大のシンポジウム などでも散々語られていた話でもある。今はその未成熟さや椹木野衣氏が言うところの「悪い場所」の良い面がクローズアップされていて、先行世代の素朴な声としての「大人がいない…」という声はただただかき消されてしまう運命にあるのかもしれない。

「その未成熟さをどう捉えるか?」「どう付き合っていくか?」というところに世代間格差とネット利用の有無による格差が潜んでいるのだろう。筆者は2ちゃんねるなどにおける罵詈雑言が飛び交う中でのコミュニケーションに違和感を抱いているが、2010年代にこのコミュニケーションに違和感を感じているようでは、これから先のネットにおける「子ども/大人」の定義はかなり難しくなっていくように思える。この罵詈雑言を脳内で上手く仕分けしながら自分に必要なコミュニケーションだけを行うには慣れが必要なのだ。

例えば、ニコニコ生放送を見ると、匿名で書き込めるコメント欄には酷い言葉が書き込まれることが少なくないが(女性配信者への下ネタコメントなど)、若い配信者は何もなかったかのようにスルーしている。書き込んでいるほうの大人気なさ(実際に大人であればの話だが…)、未成熟さがある一方で、そうした未成熟さと上手く付き合っていく方法を若い人たちは同時に獲得していることにも留意しておく必要があるだろう。

著者の書くような「大人」は、今後どんどん居なくなるのかもしれない。それはこれまで、子どもから大人になるにつれて取捨選択され、切り捨てられてきたはずのものが、今はすべてデジタルデータで温存されてしまうからだ。そのため、時間の概念はどんどん希薄になってしまい、捨てたり忘れたりすることで得られたはずの成熟に、たどり着かなくなってしまうのである。忘却によって達成される「大人」の像はもうないのだ。

しかも、これまでの成長モデルはパターン化され、それをベタに実行しようとすれば再帰的な日常を繰り返さざるを得なくなり、その既視感に苦しめられることになる。そんな平坦な日常をどのように行き、「大人」のモデルを充実感を伴いながら獲得していけるのか。おっさんになった今だからわかることなのかもしれないが、なかなか悩ましい問題だと思う。

Posted by Syun Osawa at 00:20