bemod

2010年03月10日

国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」

2010年3月5日/18:00−22:00/東京工業大学 大岡山キャンパス

国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」サブタイトルは「もう一つの日本学−批評、社会学、文化研究」。登壇者は、東浩紀(東京工業大学)、クッキ・チュー(シンガポール国立大学)、ジョナサン・エイブル(ペンシルバニア州立大学)、ヘザー・ボーウェン=ストライク(ロヨラ大学)、シュテフィ・リヒター(ライプツィヒ大学)、大塚英志(神戸芸術工科大学)、宮台真司(首都大学東京)、毛利嘉孝(東京藝術大学)といった面々。

去年の東工大シンポジウム に引き続き参加。去年は収容人員600名の会場に1000人以上の人が集まったが、今回はustreamで中継をしているということもあって、後ろのほうは席が空いていた。ustreamはかなり素晴らしいツールだけど、現場が満員にならないのでは、熱気という意味ではちょっと寂しい感じ。特にこの手のシンポジウムは音楽イベントと違ってライブ感を感じるのも難しいわけだから、ustreamをやるんなら来ないわなぁ…。

とはいえ、今回の僕の目的は、東、宮台、大塚の三人が揃った場面に立ち会うこと(つまりライブ感w)。これは現場のほうにいたほうが記憶にも残るだろうと思ったわけだ。特に大塚氏と東氏は『 リアルのゆくえ 』で微妙な対立関係を残していたので、きっと論プロも見れるに違いないと楽しみにしていた。残念ながら東×大塚では大きなバトルはなかったが、想定外のところで東×毛利のバトルが起きた。こちらは東氏とカルスタの人たちとの昔からの因縁?で、わずかではあるが論プロ的な盛り上がりを楽しむことができてよかった。

このバトルは、前半のシンポの最後に毛利氏が軽く東氏を批判したのがきっかけ。そして、休憩を挟んだ後に東氏の反論、毛利氏の応答という展開だった。毛利氏の批判、東氏の反論まではの内容は、東氏とカルスタの人達との間で交わされてきたありふれた内容だったが、その後の毛利氏の応答はなかなか新鮮だった。それは、日本人が日本で物を考えたとしても、自然と西欧的なものは含まれてしまうというもので、それは大塚氏の西欧が発見した日本に日本人が合わせる話とかもつながっている。

そして、このやり取りを聞きながら、『 ハウルの動く城 』のキャンペーンでフランスに行った宮崎駿氏が似たような話をしていたことを思い出していた。それは、生まれたときから欧米の作品を見て育っているんだから、作品の中に西欧的なものが含まれるのは当然だ…というもの。宮崎氏の世代からしてそうなんだから、僕とかその下の世代に至っては、欧米なのかアジアなのかアフリカなのか、それすらわからないような大きな文化(これをグローバルというの?)を世界同時的に受容してしまっているという状況なのだろうし、それをインターネットが後押ししていることは間違いない。

そのように考えれば、今回のシンポジウムの「オタク」が日本固有のものや歴史性、政治性といったひも付きではなくなり、社会と無関連化して受容されているという説明には納得がいく。また、無関連化しているがゆえに「クール」であるとうい外国の研究者の指摘もその通りだろう。

ようするにこれは、「柔道」が「JUDO」になったことと同じ話だろう。

柔道が持っていた日本人の精神性などは薄まり、スポーツとしてのJUDOの面白さが各国で共有されるようになる。しかし、それはひも付きの「柔道」ではなく、国際化された「JUDO」なのだ。東浩紀氏の名前が世界に広がっているのだとすれば、それは「オタク」ではなく「OTAKU」を説明した本だったから世界的に伝播したのではないのだろうか。

このオタクの国際化の話は、カラオケやコスプレといったサブカテゴリ的な文化が実はかなり大きな役割を担っていると思う。そして、そうした双方向性こそがオタクの国際化深く関わっているはずだし、OTAKUというメンタリティを宿した人格形成に大きく寄与しているとも思うのだが、今回のシンポジウムではこの点についての言及はなかった。残念。

思ったことをだらだら書いていたらまた長くなってしまったw

ここまでは、オタクがOTAKUになった話というのは、昔から「当然そうだよね」と思っていたことである。上で新鮮だったと書いたのは、それとは違った視点で展開された「OTAKUの政治性」の話のほうである(僕がカルスタをまったく知らなかったこともあるのだが…)。シンポジウムの後半の議論の中で、毛利氏やその他の外国人の研究者が述べていた「OTAKUの政治性」というのは、無関連化したOTAKU的な作品は各国で受容される際に、再び政治性を持つという話だ。

大塚英志氏はロシア・アヴァンギャルドと絡めてこの点に言及していたが、第二次世界大戦時に、枢軸国側、連合国側ともに戦争プロパガンダの映像としてアニメーションを使用していたことからも、政治性を持つという事は十分に考えられる。美術の世界でも、横山大観をはじめとする大御所たちが、朝日、富士、桜などがシンプルな図像で繰り返し描いて、日本人のイメージを補強したことも似たような話だろう。無関連化しているがゆえに、政治性と結びつきやすくなった状態にある。そのため柔道においても、柔道着に国旗が刺繍された瞬間に日本の柔道ではなくなり、各国の政治性を帯びてしまうのだ。

このあたりの話は、無関連化の次に来る話でもあるし、戦争と芸術 を追いかけている僕にとっても関心の高い領域なので、あまり左翼臭を漂わせることなく、OTAKUの主体形成と政治性についての研究が進んでいってくれたらいいなぁと思った。

Posted by Syun Osawa at 01:16