bemod

2010年11月03日

国民読書年記念シンポジウム「読書とはなにか」

2010年10月20日/13:30−17:00/国立国会図書館 新館 講堂

偶然ではあるが、平日に休みを取れたので参戦。午前中は近くにある東京地方裁判所で秋葉原の耳掻き殺人事件の裁判の傍聴をしていた。で、午後からこのイベントに参加したわけだけど、別にイベントのテーマ(読書とは何か?)に惹かれたからではない。たんに松岡正剛氏の話を聞いてみたかっただけなのだw

正直言って、本イベントのテーマはでかすぎるし、どう見積もっても話がぼんやりすることは目に見えている。それでも、そのでっかい話を大づかみに捉えて、さまざまなジャンルのジャーゴンを引っ張ってきてわかったようなわからないような(実際僕はあまりよくわかっていないのだが…)話を展開できる松岡氏はさすがだなと思った。中でも、読書をしている「私」=読書モデルをたくさん持っていて、それらが上手く編集されているのがよいという話は、なかなか面白かった。

ただ、その後のディスカッションもそうなのだが、読書という体験を「新しい知との出会い」と捉えすぎている気がしたし、読後のコミュニケーションに重点が置かれすぎているように思った。

僕は読書という行為には確実に「快楽」の要素が含まれていて、本が延命を果たすのであれば、むしろそちらの要素について考えるべきなのではないかと思う。松岡氏が今の書店は機能的過ぎるということには僕も同意で、ヴィレッジバンガードのように、快楽重視の本の陳列を目指すべきなのだ。

知りたいことをサッと知るという意味での本は、快調にインターネットに置き換わられていくだろう。その点については橋本大也氏がピエール・バイヤール『 読んでいない本について堂々と語る方法 』などを紹介しながら言及されていた。彼はこれからの本はどんどん短くなっていくと言っていたが、これは一側面に過ぎない。快楽ベースの小説はどんどんページ数が増えているではないか。

登壇者の誰かも言っていたことだが、読書の個人的な体験というものは、軽んじるべきではないと思う。的外れな比喩と知りつつも、今パッと思いついたことを以下に書いてしまおうw

例えば、SEXにはSEXという行為の快楽と、SEX後の体験談の共有という2つの要素があって、ネット時代には後者のコミュニケーションは重層化・複雑化している。童貞や処女が異常にクローズアップされてしまう事態もこうしたことに起因しているように思う。

そして、後者のコミュニケーションは実際のSEXとは関係ないところで成立してしまうのだ。しかしその一方で、SEXの直接的な快楽というのは確実にあるはずで、こちらはその瞬間その瞬間のプライベートな体験に過ぎない。日々のSEXの直接的な快楽を、多くの人で共有したいとは考えないだろう。

この声なき声というか、活字中毒者の快楽という側面を読書は決して切り離せない。コミュニケーションが異常に肥大化した時代であるからこそ、その部分を単純に切り捨ててはいけないなと…僕はイベントの進行とは関係なく勝手に妄想し、勝手にオチをつけていたのであった。

Posted by Syun Osawa at 20:14