bemod

2010年12月04日

ネトゲ廃人

芦崎治/2009年/リーダーズノート/四六

ネトゲ廃人ネトゲ廃人とは、ネットゲームにハマって抜け出せなくなり、その影響がリアルの生活にも影を落としている人のことをいう。僕はネットゲームをまったくやったことがないし、ロールプレイングゲームも得意なほうではないので、廃人になる素質をあまり備えていない。

ただし、唯一ネット麻雀だけはやっていて、負けが込んでいるときなどは何度も何度もプレイしてしまう。それはゲームの面白さから来ているのかもしれないが、ネットの向こう側に僕と同じように画面に向かった麻雀をやっている人の姿が頭に浮かんでいることも大きいのだと思う。つまり、ネットを介して誰かと繋がっている感覚。これがゲームに対する依存度をさらに高めている結果になっているようである。

この本に登場するネトゲ廃人たちの性別や年齢、職業は様々で、どんな人でも廃人になる可能性があることを示唆している。というのも、ネットゲームはコミュニケーションのためのかなり優れたツールとして機能してしまっているからだ。誰かと心を通わせたいという感情は人間にとって普遍的なものだと思うが、その感情を満たすための装置としてネットゲームは非常に優れている。

ネットゲームは目標が設定されており、その目標のためにゲームに参加しているプレーヤーたちはコミュニケーションをとることになる。そのため、目標なきコミュニケーション(例えばニコ生のgdgd雑談とか…)のようなライトな繋がりよりもはるかに強い結びつきがゲームの力によって人工的に作られてしまっているわけだ。

これを「依存度」という観点から見れば、ネットゲームは依存性がかなり高いように感じられるし、実際にこの本を読む限りかなり多くの人がネトゲ廃人になっているようである。ネトゲ廃人の中にはオフ会に参加する者も多いようで、そこでの出会いがネットゲームの依存度をさらに高めているようにも思われる。

コミュニケーション過多の時代にあって、どのように人と繋がるかということが重要になっている昨今、そのコミュニケーションのコーディネートであったりコンテクスト作りをネットゲーム会社がやっていると考えれば、この中毒性はカルト宗教(カルトでなくてもそうだが…)などにも通じるような構造的な問題のようにも感じられる。

この依存ビジネスには、当然良い面と悪い面があるはずで、それを言い始めたら止め処ない気もするのでやめておく。少なくとも、僕の関心がある環境問題の観点から見れば、このネットゲームやそこで作られる人工的なコミュニケーションのあり方というのは、デフレ経済の社会を乗り越えるための方法としても上手く作用しており、とてもエコだと思える。

エネルギー問題がだんだん深刻さを増している今の時代、ガチに物質を等価交換するようなビジネスは、100円ショップなども含めてエコと真逆の方向に舵を切っている。物質が動けば動くほどエネルギーを消費するからだ。しかし、ネットゲームは物質があまり動かないにもかかわらず、冷めたネットのコミュニケーション空間をゲームの力によって暖かくする力がある。

もちろんネトゲ廃人という副作用は出てしまうかもしれないが、その危険性だけに警鐘を鳴らしその歩みを止めるよりも、このネットで作られる人工的な充実感をいかにリアルへとひも付きにしているかという映画『 アバター 』と似た課題をクリアにしていくことで、世界は新しい歴史を歩みだすのではないかと、かなりカルトちっくな妄想に至ったのであったw

Posted by Syun Osawa at 12:53