bemod

2011年01月01日

飢餓海峡

監督:内田吐夢/1965年/日本

飢餓海峡「「在特会」の正体」と「同和と橋下徹」というルポに釣られて買ったノンフィクション誌『 g2 vol.6 』に三国連太郎氏のインタビューが載っていた。そのなかで、三国氏が『飢餓海峡』という映画について語っていて、そのストーリー展開にそそられるものがあったので見ることにした。

ミステリー仕立ての作品なのでネタバレの可能性あり。

僕がそそられたストーリー展開とは、誰が主役なのかいまいち判然としないままストーリーが展開していくところで、それがどのように映像で展開されているかが気になったのだ。謎の真相は樽見京一郎(三國連太郎)が握っていて、それを追いかける刑事(伴淳三郎)と娼婦の杉戸八重(左幸子)がいる。普通なら、刑事と八重のやり取りの中で犯人とされる樽見京一郎を追いかけていくことになると思うのだが、必ずしもそういう謎解きパズルのような展開にもなっていない。

むしろそうしたミステリーの手つき以上に、物語の舞台となっている戦後すぐの日本で、貧困にあえぐ人たちが必死で生きていく姿をリアリティを持って描き出すことに注力しているように見える。だからこそ、一人ひとりの登場人物の人間観がより深く浮かび上がっているように見えたのだろう。今の言い方だとそういう登場人物を「キャラが立つ」と言うのだろうか。

ただその一方で、この作品のストーリー展開は帰納的なストーリーに還元できるもののようにも感じた。手塚治虫は著書の中で、キャラクターは帰納的なストーリーよりも演繹的なストーリーのほうが立つというようなことを書いている。帰納的ストーリーとはオチから逆算してコマを配置していく方法で、緻密なストーリーを作れる一方でキャラクターがそのストーリーの置物のように配置されることでドライブが掛りにくいというマイナスの側面もある。それに対して演繹的ストーリーとはストーリーの展開が予測できず、緻密なストーリーは練りにくいが、キャラクターの動きがより際立ちドライブが掛りやすい。

この手塚の漫画制作の手法でこの映画を見たとき、杉戸八重の描き方は演繹的であり、樽見京一郎の描き方は帰納的である。そして、このパラレルなストーリー構成によって作品が成立しているのだ。この手法を選択した理由は、杉戸八重は樽見京一郎の秘密を知らず、樽見京一郎だけがこの作品にキーとなる事件の全真相を知っているからである。こうしたところにミステリーの強みが生かされているのだろう。とても上手いと思う。

Posted by Syun Osawa at 16:39