bemod

2013年03月17日

龍宮城 歌舞伎町マフィア最新ファイル

小野登志郎/2009年/太田出版/四六

龍宮城前田日明さんがTHE OUTSIDERというイベントを始めた頃から、2chのアウトロー板を見る機会が増えた。そのアウトロー板でよく登場するのが、関東連合と怒羅権だ。

関東連合は朝青龍事件や海老蔵事件でかなり有名になったので、事件直後にテレビのワイドショーなどで解説されることも多かった。一方、怒羅権に関してはほとんど話題になることがない。この本ではそんな謎の集団・怒羅権の実態に迫っていた。

怒羅権は中国残留孤児の2、3世を中心とした暴走族で、1990年代以降の関東では最大の暴走族と言われているようである。暴走族といえば族同士の喧嘩のイメージが強いが、警察を襲ったり、殺人事件を起こすなどの凶悪事件をはじめ、違法ビジネスにも手を染めており、暴走族というよりはマフィアに近い。

では、ヤクザのように組織だったヒエラルキーは構築されているのかと言われれば、そうでもないようだ。ヤクザのコミュニティは社会からドロップアウトした刹那的な人たちが共犯関係を結ぶことで構成されており、このコミュニティの中心にいる組長は、たんなる組織のリーダーではなく、構成員が抱える寂しさを引き受けてくれる存在だ。そのため、「哀愁の共同体」などと言われることもある。

それに対して、怒羅権は中国残留孤児であることがコミュニティの中心にあるものの、実際にはそれ以外の日本人も多数所属しているらしく、その外側には共犯関係としてのコミュニティがある。本の中でもたびたび語られていることだが、そこには明確な中心があるわけではなく、同じ怒羅権だからといって、必ずしも結びつきが強いというわけではないようだ。そのことは本書に登場する怒羅権のメンバー自身が度々語っているところでもある。

コミュニティの問題は僕自身にとって関心領域の一つなので、怒羅権のコミュニティの在り方、もしくは所属意識の持ち方にとても興味を抱いた。彼らを第一義的に結び付けているものは中国残留孤児というマイノリティグループへの求心性であろう。その次が、お互いが犯罪を犯しているという共犯意識。ここまではヤクザと同様だ。

ただ、この両者が決定的に違うように感じられるのは、ヤクザのコミュニティが組長や会長を頂点にしたヒエラルキーに基づいた縦社会なのに対して、怒羅権のコミュニティが水平な仲間関係を中心とした横社会に見えるからだと思う。

もちろん、リーダーはいるし、尊敬できる先輩もいる。しかし、彼の組織を組織たらしめている最も大きな要因は何か? と問われれば、仲間ということになるのではないか。例えば、社会学者の鈴木謙介さんが『 サブカル・ニッポンの新自由主義 』の中で、社会への不安を抱えながら生きている若者の帰属先として地元の連れの重要性を挙げており、僕にはそれと近いイメージを持った。

他にも、社会学者の古市憲寿さんが『希望難民ご一行様』という本の中で、クルーズ船・ピースボートに乗り込む人たちを「承認の共同体」という言葉で言い表しており、水平な社会の中でお互いがお互いを認め合う(承認し合う)ことによって作られる共同体の話題を取り上げている。これにも近いように思う。

落としどころを考えないで書き始めたので、何だかまとまらなくなってきたが、仲間とか友達といった共同体がコミュニティの中心に来るのはゼロ年代っぽい話題だという風に感じており、それはこの本に登場する怒羅権にも感じたという話だ。では、仲間を仲間たらしめてるものは何か? などと考えると、話がどんどん曖昧な方向に流れていって、最終的にはよくわからなくなってしまう。

何となく今思っているのは、一見脆弱に見えるコミュニティが人の所属意識の中心にきているのではないかということだ。それらのコミュニティの中心に強いシンボルとなるような物が実在するわけではなく、ぼんやりとしたイメージが中心にあるだけだ。カッコよく言い換えれば「イメージの共同体」というようなものによって、人々は所属意識を満たしているのではないか。

こう書くと、極めて薄いコミュニティのように思えるが、そうではない。強い集合性を維持したコミュニティであっても、そのコミュニティが統制され、組織化することで次第に形骸化していく例は少なくなく、むしろゼロ年代はノマド的(牧歌的)な生き方を是とするような不定形で網状のコミュニティが強度を持ち始めているように思えてならない。それが、ヤクザと怒羅権や関東連合との組織のあり方の違いによって、具体的に示されていたような気がした。

Posted by Syun Osawa at 00:03