2006年02月03日
聖徳記念絵画館 その1
年中無休/明治神宮外苑
インパクトのある重々しい外観をしてるくせに、内側のほうは思ってた以上に狭かった。人もほとんどいない(受付のおっさんが一人だけ)からやたら静かで、足音がカツーン、カツーンと響く。
鳥が翼を広げたような贅沢な左右に長い建物はそのまま絵画の展示スペースに割り当てられており、右側に日本画(1852−1878年)、左側に西洋画(1879−1912年)が飾られていた。絵はガラス越しで、しかもかなり離れた位置から見ることになる。
この絵画館に飾られている絵は、いわゆる「歴史画」というヤツで、明治から大正にかけての天皇を中心とした行事の模様が絵画になって収まっている。戦争画関連でここを訪れた書籍を読むと「つまらない絵」と切り捨てられることが多いが、なかなかどおして面白いところがいっぱいだった。
徳川慶喜と明治天皇
まず最初に目につくのが、大政奉還から明治天皇の遷都に至るまでの一連の日本画。邨田丹陵《大政奉還》で徳川慶喜が大政奉還を受け入れる場所と、島田墨仙《王政復古》で明治天皇が座っている場所では、広さがぜんぜん違う。この時点での徳川家と天皇家の勢力図がちょっと見える。そりゃ江戸城に住もうって思うわな。
明治天皇の顔が描かれなかったのはなぜ?
明治天皇はこの絵画館に展示されている絵の主役なもんで、ほとんどの絵に登場する。ところが、初期のほうの絵では明治天皇の顔は常に何かに隠されている。メッシュ(正式名称わからん)の垂れ幕で顔が隠されていたり、後ろを向いているのはまだいいとして、中には無理やり顔を隠しているものもある。例えば前田青邨《大嘗祭》などは、鳥瞰図的に斜め上からを眺めた構図になっており、下のほうに見える廊下を明治天皇が歩いている。明治天皇の顔を隠すために悠紀殿の屋根を無理やり下に引っ張ってきてちょうど顔の部分を隠しているものだから、画面の8割近くが屋根になっている。見えそうで見えない。
明治天皇の顔を描くのは恐れ多いというような感覚があったのだろうか。この暗黙のルールが崩れているのが、町田曲江《御練兵》で金華山(馬)に乗る明治天皇の横顔が見える。1874年あたり。これ以降は、普通に明治天皇の顔は描かれるようになり、同時に絵の神秘性も失われていった。
(関連)戦争と芸術
Posted by Syun Osawa at 00:37