bemod

2006年06月09日

「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか

大塚英志、大澤信亮/2005年/角川書店/新書

「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか今村太平さんの『 漫画映画論 』に感銘を受け、次は「ジャパニメーション論」かと思った矢先にこの本に遭遇。始まっていないうちからもう敗れてるじゃないか…orz と、切ない気持ちで読み始めたのが今から半年前。

久々のトンデモ本じゃないのこれ?

…と思ってしまい、いろいろと付箋を立てながら読み進め、複雑な気分のまま読了。で、そのまま半年が経過。どうでもよくなっちゃった。

ジャパニメーションの起源はディズニーである。よってジャパニメーションはディズニーの二次創作であり、亜種である。そんでもって、手塚治虫はディズニー的なキャラクター(記号)に血が流れたり、傷ついたりする身体性を持ち込んだ(死にゆく身体と時間軸の導入)。このギリギリの倫理性こそが戦後の漫画のオリジナリティである。

そんなようなことが書かれてあった(…と思う)。戦前の漫画史や記号と身体性の話なんかは資料も豊富で面白く読んだんだけど、戦争関連の話は上手に消化できなかった。

国に対しては「お上が口を出すな」と言い、一方おたくの側に対しては「倫理的であれ」と言う。それがロシア・アヴァンギャルド時代の革命的雰囲気を有したアナーキストの叫びなのであれば頷きもするのですが、まんま日教組のように思えてしまって、目から鱗とはならない。そしてコミットしたいとも全然思わない。

アニメだ、まんがだと国や産業界が「国策化」を進めているか疑問ですが、「萌え」に本気で「日本文化」やナショナルアイデンティティを背負わせようとするのは普通に考えれば「国辱」でしょう。ぼくはナショナリストではないので、結果として「国辱」化しているという事態についてはむしろ、興味深く受けとめていますけれども。

とか

「キャラクターと構造しかないアニメ」はバカでもわかるのです。「小泉劇場」と同じです。だから大衆動員の装置にもなるわけです。日本人の一割が見る「国民アニメ」化すると同時に没世界化しやすいわけです。

とかね。押したり引いたりしながら伝えようとしている感じはわかるんですけど。最近は、『早稲田文学』のコラムとかも含めて宮崎駿さんをやたら攻撃しているようで…

そもそも宮崎アニメには固定したイデオロギーがない。しかし、その都度、マルクス主義(『太陽の王子ホルスの大冒険』)、エコロジー(『風の谷のナウシカ』)、古き良き日本(『となりのトトロ』)といった、いかなるイデオロギーも補填しうるからっぽの箱で、柄谷行人のいう「構造」しかないものとしてある。だから「国民文化」という内実のないものの表象になりやすいのです。

固定したイデオロギーって何だろうなぁ? これについては、次に言うって書いてあるからちょっと興味がある。

大塚英志さんの言っていることがロシア・アヴァンギャルド時代の「自由を求めた何やら」をイメージしているのなら支持できるんだけど、それ以降の社会主義リアリズム(プロパガンダ含む)の倫理性を求めているのだとしたら微妙な気持ちになる。

ファシズムとミッキーマウスをつなげる話で、ナチ政権下でディズニーを禁止しながら、裏ではヒトラーが『白雪姫』を見ていた程度のことなら、スターリンをはじめ世界中で見ていたわけだし、左右問わず戦争の目的としてアニメが使用されたことは間違いない。そうしたプロパガンダアニメを「目的美術」の文脈でまとめて批判するなら理解できるわけだが、そこに倫理が出てくるところで、プロレタリア美術以降の何やらが顔をもたげているようで何とも…。このあたりは自分の中で何かしっかりとしたもの(固定したイデオロギーw)がないので、ただ不安になるだけなのかもしらんが。

僕自身が一番残念に思ったのは、広告代理店についての話。

「制作会社がテレビ会社の下請け化していることが問題である。」という指摘をしているにもかかわらず、その打開策としてのファンド政策に超単純な資産によって疑問を投げかけているというのは腑に落ちない。なぜ電通と博報堂に問題の先を持っていかないのだろう? ジブリを突くなら、博報堂との関係の方でしょうが。つまり、視聴率のリサーチ会社まで子会社におさめる電通と博報堂が国策化に加担した瞬間に世の中の危機は立ち現われるのであって、個々の漫画映画監督や現代美術家に嫌味を言ったって仕方ない。ましてやアニメファンドなんて投資銘柄の一つでしかないわけで。

最後の方にこんなことが書いてあった。

戦後のまんが/アニメ史は、戦争という経験のなかで達成された倫理を内包しています。それは、ぼくたちの表現が唯一、ハリウッドから自律しえた部分です。ハリウッドはそれを簡単には回収できない。できないから切り捨てようとする。だからこそぼくたちは戦後まんがの倫理性を「世界化」と言いつつ一緒に放棄してはまずいのです。ジャパニメーションが経済的に敗北しようが「国策」がコケようが、本当はそんな事はどうでもいいのです。ただ、この倫理の敗北だけはあってはいけない。

やっぱり「倫理」だ。それと、倫理性を求めるならさ…

今のまんがファンはイラクに自衛隊がいる、この状況でこの状況で「ガンダム」がたった今、再びブームなことを少しも変だと思わないだろうけれど、それは戦争中の子供も少年読み物として海野十三に夢中になる自分たちを少しも不思議だと思わなかった点で同じだったと思います。

瑣末なことかもしれないが「子供」とするより「子ども」とすべきではないか…というツッコミを入れつつ、「ジャパニメーション」が敗れる話はどこいった? が頭を三度ほどループして消えてった。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:46