2007年01月27日
西洋美術事件簿
瀬木慎一/2003年/二玄社/四六
『 日本美術事件簿 』に続く、事件簿シリーズの第二弾。西洋美術史もこういうゴシップネタから読み解くと学ぶ意欲が沸いてくる。いつの時代にも芸術などという不埒なものに熱中するヤツがいて、そのことがたまらなく愛しかったりするからだ。
一番心をひかれたのは戦争に関する話(やっぱりか)。ゴヤの《マドリッド 1808年5月3日》のように抵抗の意思表示として示された絵もあれば、ダヴィッドやナチス絵画のように大きな物語を補強する役割を担った絵もある。ほかにも、故国をもたない悲しみが染み出したユダヤ人シャガールの《白い磔刑》など描かれる絵の方向性は様々だ。
画家が戦争を描くということうことは、何も厭戦的である必要はない(当然)。戦争を描いているという自覚さえあればよく、最も重要なことは画家の眼に何が映っているか、そしてそこで感じたものをどのように絵にしたかなのだと思う。それらのベクトルを少しずつ拾い集め、一つの世界に重ね合わせたとき何かが見えてくるのか、それとも見えてこないのか。気になるのはそのあたりだったりする。
現在の問題。芸術においても世界の中心となったアメリカについて以下のように書かれている。
かつてのニュー・ディール的な要素を一掃し、根本的な方向転換を図ったこの国の、ポスト資本主義文化の特徴は、一方における抽象主義への徹底と、その対極における具象主義の進展と二分化し、新規な様式は次々に派生するが、相互に交差することのない基盤に、脱イデオロギーという眼に見えない共通項を通低させている。
納得。アメリカに追随する日本は完全にこの蛸壺にハマっているように思うのは僕だけではないはずだ。もちろんゼロ年代の芸術も含めて。
(関連)戦争と芸術
Posted by Syun Osawa at 23:49