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2009年12月08日

「実録!“漫画少年”誌」展

2009年10月24日−12月6日/文京ふるさと歴史館

「実録!“漫画少年”誌」展現代マンガ図書館長・内記稔夫氏の講演 の本体のほう。序盤の展示では、竹原古墳や虎塚古墳の壁画の写真パネルを持ってきていて、その後、鳥獣人物戯画(平安−鎌倉時代)から鳥羽絵を経由して、ポンチ絵(江戸時代)あたりまで流れを漫画の前史として解説していた。

こうした流れは、『 江戸漫画本の世界 』あたりで何となく理解していたが、改めて通して見てみると、なるほどポンチ絵あたりまでのタッチというのは、かなり似ている。そしてそれは、戦後の漫画と比べても、線の感覚についてはあまり変わるところがないように思える。唯一の違いは、西洋画的な立体感覚がどれだけ導入されたか、ということだけなのかもしれない。

この展示会のサブタイトルは「昭和の名編集者 加藤謙一伝」となっており、雑誌『漫画少年』を立ち上げた編集者・加藤謙一にスポットを当てている。加藤氏は小学館で『少年倶楽部』の編集長をしていたが、戦後、民間人でありながら戦争責任を追及され、公職追放の憂き目にあった。普通なら、ここで話が終わってしまうわけだけど、加藤氏はそこから学童社を立ち上げて『漫画少年』を発行する。このバイタリティが素晴らしい。

『漫画少年』は 内記稔夫氏の講演 でも紹介されていたように、多くの漫画家を輩出した。また、手塚治虫は学童社の近くにあるという理由でトキワ荘に住んだらしく、手塚氏にあこがれてトキワ荘に集まった面々も、学童社に近いことが幸いしてカット絵などの仕事を請けていたこともあったようだ。そう考えると、彼が戦後漫画に果たした役割というのは、かなり大きかったと見るべきなのだろう。

話は少し逸れるが、新潮社の『バンチ』はたしかアシスタントを一つの場所に集めて、複数の漫画家のアシスタントをこなすシステムを作っていた時期があったと思うが(今もあるの?)、これなどは効率主義の成果というよりは、『漫画少年』時代のそれに似ているような気がしないでもない。

さらに話は逸れて、文京区の主な出版社というところで、誠文堂新光社の名前を見つけた。雑居ビルの1階にあり、ペット雑誌や僕が買っている『アニメーションノート』などを出している小さな出版社だ。僕は、中央公論社や河出書房が潰れて中央公論新社や河出書房新社なったのと同様に、出版不況の中で潰れた結果「新社」になったのだと思っていた。実はそうではないらしい。誠文堂という出版社が、新光社を吸収合併して、現在の社名になったそうな。しかも、それは戦前の話(1935年)で、何気にこの出版社はかなり歴史が古い(1912年創業)。人は見た目によらないと言うけれど、出版社も出している本だけではわからないものだね。

Posted by Syun Osawa at 00:51