bemod

2009年12月21日

ジャンルイジ・トッカフォンドの誘惑

2009年12月12日/18:00−20:10/東京藝術大学 馬車道校舎

公開講座 馬車道エッジズ山村浩二氏による公開講座「コンテンポラリーアニメーション入門」の3回目。イタリアのアニメーション作家、ジャンルイジ・トッカフォンド氏の作品を、山村氏の解説を聞きながら見た。

トッカフォンド氏の作品は、僕が普段見ているアニメと比べて抽象度が高い。CMの類ならそれでも気にならないのだが(CMな時点で方向性を持っているので)、そうでない作品に関しては、山村氏の解説がなければ「何のこっちゃ?」と思うようなものも少なくなかった。

そして、その「何のこっちゃ?」が頭の中をグルグル回った後、僕はこれまで、イメージよりもストーリーに重点を置いてアニメを見ていたことに気づかされた。Youtubeで公開されているアニメ系MVを見るのが好きなので、イメージ先行(作画ヲタという意味ではない)で見るような作品も結構いけると思っていたのだが、どうやら違ったようだ。そう考えると、ストーリー性の弱いアニメ系MVも、実は音楽ありきで見ていたのかもしれない(いい加減やなw)。

彼は、作品の着想を、古雑誌から得ているらしい。

ゴシップ雑誌の猥雑な一枚の写真から立ち上がってくるストーリーを軸に作品を構成するというのは、先日の ナショナル・ジオグラフィック日本版 創刊15周年記念講演会 で聞いた、アイデアの出し方と近いものだった。『ナショナル・ジオグラフィック』の記者が、一枚の写真から浮かび上がるストーリーを軸に取材を開始するのに対して、トッカフォンドはその写真から浮かび上がる現実を、自分の中のイメージ世界へと落とし込んでいる。両者の表現の方法は対照的だが、いずれも現実を「ありのままを受け入れる」ことをスタンスとしていることは、興味深い共通点だといえるだろう。

このことから、次のように妄想してみる。

  1. 彼の作品は抽象的だが、それは現実の世界に対して「+1」された世界であり、具象絵画でよく描かれるような「本物らしい別の世界」を意味しない。

  2. 彼の作品を見たときに抱くざわざわした感じは、夢を見ているときに抱くざわめきに近い。また、夢がそうであるように、彼の作品も物語性や時間性が曖昧になっている。

よって、そこに映し出されているイメージの変化は、彼が社会との関わりの中で残した痕跡であり、社会の変化そのものである。

…なんていう話にもっていこうと思って、この文章を書き始めたけれど、そもそも抽象と具象の話なんていうものは、美術の世界では19世紀の前半に散々やりつくされているし、僕が知らないだけで、アニメの世界でもそういう話は過去のものになっているに違いない。だからこの手の妄想もありふれたものでしかないわけだ。

それでも、僕が今回、トッカフォンドの作品を見て福本伸行ばりの「ざわざわ…」感を抱いたのは(そっちなの?)、トッカフォンドの作品の抽象性が、いわゆる絵画を意識した抽象画の技法に由来していたからだろう。とはいえ、これだって、僕の観賞態度が、アニメなら物語に重点を置き、絵ならイメージによってかき立てられる感情に重点を置いていた、というだけの話である。

ところで、短編作品を上映する場合、複数の作品を一気に見せられることが多いが、今回は数十秒の作品であっても、一回一回区切って山村氏が解説をされていた。これはとても素晴らしいと思う(そういえば、JAWACON もこの形式をとっていたな)。メディア芸術祭などでは短編作品を十数本くらい一気に見せるが、あれは、自動読み上げ機でノンストップに俳句を読み上げているようなもので、余韻も何もあったものじゃない。そうなると、作品の内容とファーストインプレッションだけをメモしておいて、あとで思い出して考える…といった形になるので、できれば今回のような上映形式が標準のフォーマットになればいいなと思う(時間的な制約上難しいだろうけど…)。

Posted by Syun Osawa at 00:56