bemod

2010年02月22日

ゼロ年代のすべて

宇野常寛、東浩紀、宮台真司 他/2009年/第二次惑星開発委員会/A5

ゼロ年代のすべて宇野氏が編集長を務める『PLANETS』の別冊。コミケではこの他に、東&宇野共同編集による『Final Critical Ride 2』も売られていたのだが、前作 でお腹いっぱいになったので、こちらの別冊だけを購入した。

ゼロ年代の総括本は各所からちらほら出ているようだが、僕がゼロ年代に読んだサブカル系批評関連の本は、ほとんど東浩紀関連のものだけ(残念ながら…)。他に何かを考えるためのパースペクティブを持たないために、とりあえずその界隈の批評のトップランナーである宇野氏の編集した同誌を読んで、ゼロ年代を俯瞰した形で眺めておきたいと思ったのだ。

ゼロ年代の流行に全然乗れなかった僕にとって、この本はかなり熱い内容だった。ページ数は128ページと少ないものの、フォントを極限まで小さくし、文章を圧縮して詰め込んでいる。だから情報量がとにかく凄いのだ。宮台真司氏と東浩紀氏の対談、脚本家の大森美香氏やアニメ監督の谷口悟朗氏のインタビュー、小説、映画、漫画、アニメ、ドラマ、音楽などの各座談会と、ゼロ年代に流行したポップカルチャーを網羅して語りつくそうという野心に溢れている。何よりその情熱がよかった。

この同人誌の中からあふれ出る固有名とその固有名につけられたタグ的なコメントの集合体から醸し出される空気感は、たしかに僕が経験したゼロ年代の空気に近かったような気もする(そこで指摘された問題点なども含めて)。ただ、それでも「まぁ…そうだろう、しかし…」的な気持ちが残ってしまうのは、例えば、昨今の「正社員化か? 流動化か?」みたいな議論で、「流動化やむなし!」みたいな展開に大筋で同意しながらも全乗っかり出来ない気分と少し似ている。

流動化は避けられない事態だということもわかるし、またそれらが、僕達自身によって選び取られた未来の果てにある現実だということもわかるのだが、未来への道標として導き出される思考のベクトルが、「その激しい波を如何にゲーム的に乗りこなすか?」という曲芸的な作法の過激さにすり替えられているような気がしてならないのだ。

こうした事態に異議を唱えようと立ち止まっても、意思を持たない流動化の波は立ち止まってくれないので、すぐにその異議の声は飲み込まれてしまう。ロスジェネ論壇なんてまさにこれだろう。だから、何かしらのメッセージを発するためには、サーファーのようにその波を乗ることを前提とし、海面に浮上し続けていなければならない。そして、そのための技術が「コミュニケーション」なのだと勝手に言い換えてみると、コミュニケーション力を駆使して流動化の波を上手く乗りこなしている人の動きというのは最先端のように思えるし、「思想のラディカルさ」というのは、いかに過激に乗りこなすかということに直結されて理解されそうな勢いもある。

ただ、世の中にはマーシャ・ガッセン『 完全なる証明 』に登場するペレルマンのような人もいて、そういう人は海底深くに潜っている。こうしたコミュニケーションでケリをつけない人々が、大きなポテンシャルを秘めている可能性を無視することはできない。上手くバランサーを働かせて、ハイブリッドに時代を乗り越えていくというスローガンはまったくその通りだが、「でも、しかし…」というエクスキューズだけは、「ミステリー小説家が、根拠はないけど後に必要かもしれないので、とりあえずここに複線を立てておこうとして書きこまれるネタ」くらいのノリで(どんな比喩だw)、残して続けようと思う。回りくどい文章だなw

Posted by Syun Osawa at 01:01