bemod

2009年10月14日

Final Critical Ride

東浩紀、宇野常寛 ほか/2008年/同人誌/A5

Final Critical Rideこの文章、長いだけでオチはないw

なかなか濃い同人誌だった。いや…こういうのは濃いとは言わないか、商品としての完成度が高いというのが正確かな? 平成ライダー、アーキテクチャー、日本の難点という、いわゆる「東浩紀周り」と呼ばれる島宇宙の中で話題になっているネタがギッシリ詰まっており、ガイド本的な意味でも面白く読んだ。

平成ライダーはまったく見ていないので、『 ゼロ年代の想像力 』のときと同様、ただ頷くほかない。この本に書かれていることが本当なら、白倉&井上コンビというのは、オタク系文化の進化に大きく貢献しているのだろう。ただし、2ちゃんねるの白倉Pスレを見ると結構叩かれてもいるようだ。叩かれている点と賞賛されている点は表裏一体なので、その両面からの反応が起こっている事それ自体が、何かしらの変化(進化しているにせよ、退化しているにせよ)を証明しているとも言える。ともかく、その核となっている白倉Pの思いについては、彼の著書『 ヒーローと正義 』を読んで確認することにしたい。平成ライダー見ろよって話だけどw

この同人誌の付属CD-ROMには、東浩紀氏、宇野常寛氏、鈴木謙介氏らによって収録された「Alive3」というラジオが入っている。音源を聴く とわかるが、そのほとんどは平成ライダー話、そして東氏&荻上氏の喧嘩に費やされており、「いい大人が何してるねん…」という感想以外にはない。しかしその一方で、このラジオに出演している人たちが、ポップカルチャーを語っていながら、いわゆる狭義のオタクにもサブカルにも属さない別の文化圏に属している人たちのように思えて、その点だけが少し気になった。

まぁ…その事にしたって今更なのかもしれないが、ラジオの中で2005年を文化的な切断面とする話題が出ていて、ふと『ユリイカ2005年8月増刊号 総特集=オタク vs サブカル! 1991→2005 ポップカルチャー全史』という本のことを思い出したのだ。残念なことに、この本はリアルタイムで買ったのだが、未だに読んでおらず内容については踏み込めない。当時、チラ読みした記憶を辿ると、オタクとサブカルという対立軸はもはや有効性を失っている状況下で、あえてオタク側とサブカル側という立場に立って、90年代初頭か00年代半ばまでのポップカルチャー史を辿っていくという内容だったと思う。

この本に対して、ネット上に「今どきオタクとサブカルの対立軸なんて成立するのか?」といった感想もあがっているが、それはベタに読み過ぎというものだろう。当時それはすでに自明の問いであり、むしろこの本ではあえて対立軸を設けることで、その問いへの手がかりを模索したいという意図が含まれていたように思えるのだ(読んでないから妄想だけどw)。そして、その総決算としてこの本はあり、その年が2005年であった。

東浩紀氏は2004年のコミケで祭りは終わったと終了宣言をしている(このあたりの話は『 皆殺し文芸批評 』の感想で書いた)。この頃までの彼の動きは、あくまで美少女ゲームなどのオタクカルチャーと併走しており、そのため、オタク勢力からの批判によってそれなりの輪郭を持っていたはずの東浩紀周りという新勢力も、世間からはオタクと同じだと思われる傾向が強かった。そして、そこが混同されたまま勢力だけが拡大していったのが2000年代前半。これにより、『動ポモ』出版当初にはオタクの側からトンデモ本扱いを受けていた彼の言説が、いつしかオタクを代表する言葉として流布するようになった(少なくともそう見られるようになった)ことは大きな変化といえるだろう。

2005年には、もはやオタクという言葉の持っていたマイナーなイメージは薄れ、誰もが自分をオタクと表明するような透明なものになってしまった。そして、オタクを自称する者同士でさえも、共通の文化圏にいる集団として、お互いを意識することが難しくなった。

その一方で、「サブカル」という言葉はゼロ年代には完全に死語となり、そうなったことで逆にその集団の姿が明確に浮かび上ってきたようにも思える。これは、選挙において投票率が下がれば下がるほど、固定の支持層を持つ共産党や公明党の名前が浮上してくるのと同じロジックである。

2004年に美少女ゲーム系批評の祭りが終わり、2005年は混沌としていた。そのカオス状態中で登場したのが宇野常寛氏だと考えるのが妥当だろう。宇野氏の論法はオタクにもサブカルにも悪口を言うという幼稚なものだったが、それでも宇野氏の書いた『 ゼロ年代の想像力 』は、そのどちらの勢力からも違和感を表明されており、結果として、彼の振る舞い自体がオタクにもサブカルにも回収されない別の道を示したと言える。彼自身、大塚英志、宮台真司、東浩紀のトライアングルで構成された知的空間を「捏造した」と明言しており、今たしかにそうした言説が、第三の道として一本の線を形作ったことは間違いない。ニューアカからゼロアカへと続く「ニッポンの思想」史は、このようにして補完されたのである。

ここで興味深いのは、東浩紀周りにいるはずの人間からも宇野氏に対して違和感が表明されたことだ。彼らは、東周り=オタクというに認識があったのかもしれないが、この二つは本来同じではなかったはずだ。そこを混同されるほどに「オタク」と「東浩紀周り」は溶け合って、近い場所を併走していたことになる。

東氏が道場主をつとめ、ゼロ年代の批評家を育てる企画「ゼロアカ道場」においても、宇野氏が編集長をつとめる同人誌『PLANETS』と著書『 ゼロ年代の想像力 』に引きずられる形で、「宇野常寛力」を見るという関門(第三関門)が設置された。第三の道を補強する形でゼロアカも流れていったわけだ。

たとえゼロアカ内部で書かれたものが宇野批判の文章であったとしても、もはやこの流れそのものが、オタクにもサブカルにも回収されれない別の道を歩んでしまっていたことを東氏は感じたに違いない。そして、東氏と宇野氏が相互補完する形で新しい道を開拓していくという閉じたセカイの突っ込み漫才(「セカイ系的弁証法」とでも言ったらよいのか…)によって、第三の道という形式だけが拡大されていったのだろう。

一方、サブカルの側はというと、佐々木敦氏が『 ニッポンの思想 』というひとまずの敗北宣言の書を書いた。メディアを見れば、『Quick Japan』が路線変更を遂げ、『Studio Voice』が休刊になった一方で、これまでの雑誌の作法を上手く操った宇野氏による『PLANETS』は批評系同人誌のトップをひた走っている。

彼の手法は同人誌に商業誌的な企画を持ち込み、同人誌的なぬるさを廃している点が特徴である。この手法自体に新しい道が示されているわけでは決してない。ただ、大卒、大学院卒の増加に伴って、時代に対して常にカウンターであるようなカルチャーを追い求めるようなサブカル志向ではなく、いわゆるニューアカ的な(そしてある意味優等生的な)アカデミックさ主軸にしたポップカルチャー誌が時代の要請を受けていたことは間違いないだろう(それが『ユリイカ』だろう的な話は無視する!)。

かつて伊藤剛氏と東浩紀氏は『QJ』誌上で対談したが、その当時は『QJ』の読者にとって東氏の発言は難しすぎるという意見が、発行元の編集部にはあったらしい。しかし時代は変化した。宇野氏は、難しすぎる東の文章を少し背伸びして読みたい読者たち(かつての浅田読者のように)の層を狙い撃ちしたわけだ。そして、この作戦はそれなりに成功したように思える。

彼らの新しさとは、ニューアカから始まった「ニッポンの思想」の最前線にいるという立ち位置だけが唯一の根拠になっている新しさである。もはやそれが新しいのか古いのかは誰にもわからないわけだから、「ニッポンの思想史の一番最新の項目にいる俺」という立ち位置こそが新しさを根拠付けるものであり、ゆえに俺の思想も新しいというわけだ。だがよく見ると、彼らが啓蒙しようとしている話のオチはたいていの場合「あ…そうですか…」というほどに普通である。そしてそれは、日本でヒップホップの認知度が爆発的に高まったときに垣間見えた「いたって普通」の潜んだ新しさと同じようにも思えるのである。つまり、そこに載っているリリックは極めてベタなのだ。

さて…。

僕は何でこんな文章を書いているのかわからなくなってきているw いつも通り読書感想文を書き始めたつもりだったのに、気づけば恐ろしい長文になっていて、その上、意味もよくわからなくなってしまったw おそらく最初は、次のようなことを書こうと思って僕はキーボードを叩いたのだった。

本屋で『Quick Japan』を立ち読みしたら、さわやか氏が「95年」という連載を始めており、単純に宇野氏の『ゼロ想』と全面対決する本なのかと思った。これが最初。

次に、ゼロ年代の状況を2005年を切断面として説明しようとする声が「Alive3」をはじめとして、いろいろなところから聞こえてきた。そして、ここでちょっとだけ僕の個人的な体験と重なった。個人的な体験というのは、ウェブ上での映像コンテンツについての話だ。

この狭い島宇宙に注目すると、2005年以前は、GIFアニメブームの後、2ちゃんねると連動した形でFLASHが盛り上がり、何か大きなニュースがあるとまとめFLASHがつくられるなど、いわゆるFLASH職人と呼ばれる人たちがネットの映像コンテンツを牽引していた。さらにそれらが『ほしのこえ』に代表される個人制作のアニメーションの隆盛とリンクする形で、新しい可能性が次々に生まれた時代だった。

2005年以降は、Youtubeやニコニコ動画がブレイクし、商業も同人もMADもおかまいなしに、映像コンテンツが一気に解放された時代である。昔ならWarez系サイトやWinMXでしか流通しなかった商業作品(MADビデオやMADテープも含む)なども当たり前のように公開されるため、映像に対するクリエイティビティは圧倒的に低下した。ただし、MADの普遍化をどう捉えるかで、逆を言う人もいるはずなので、ここは意見が分かれるところだろう。

少なくとも、ウェブ時代に入って少しだけ芽を出していた地下からの息吹が、過去のデータベースの解放によって一瞬にして飲み込まれたのは事実である。それこそ東浩紀『動物化するポストモダン』が予期した世界が5年遅れてようやく顕在化したわけだ。

実はこれと似たような状況が、90年代の後半に音楽コンテンツの世界で起きている。音声圧縮技術として一気に認知度を高めたMP3の登場によって、CDクオリティの音楽データのやりとりが容易になり、ほとんどの音楽データがMP3形式に置き換えられてしまった。音楽のデータ形式については、その後ほとんど技術的な変化は大きくない。ゼロ年代後半からは、iTunesというゲームボードが設定され、その中でプレイヤー達はダウンロード数を競い続けている。また、自由な形式で書かれていたテキストサイトが、すべて類型のブログに置き換わったことも似たような話だろう。

僕は90年代後半はMODという自主制作系のDTM、00年代前半はFLASH職人をやって遊んでいたので、結果的にどちらも大波に飲み込まれた格好になってしまったのだ。そういう感情的な部分も含めていえば、2005年以前のほうが僕は好きだったわけだが、そうした懐古趣味をのぞいても、Youtubeやニコニコ動画によるフレームの固定化、視聴環境の制度化については少しだけつまらなさも感じている。

このつまらなさは、だまし絵 に感じたフレームの語りやすさとも重なるかもしれない。ディズニー会長のマイケル・アイズナー氏が『 ディズニー・ドリームの発想(上・下巻) 』の中で語っていたこととも重なるかもしれない。もしかしたら平成ライダーの視聴率とも重なるかもしれない。

…と強引に話を移動させてw 唐突だが、平成ライダーシリーズの視聴率を挙げておこう。なかなか面白い結果が出ている。

1位 アギト(2001年) 平均11.73%
2位 龍騎(2002年) 平均 9.68%
3位 クウガ(2000年) 平均 9.29%
4位 555(2003年) 平均 9.21%
5位 剣(2004年) 平均 8.34%
6位 カブト(2006年) 平均 8.05%
7位 響鬼(2005年) 平均 7.96%
8位 ディケイド(2008年) 平均 7.95%
9位 電王(2007年) 平均 7.40%
10位 キバ(2008年) 平均 6.39%

平成ライダーはまったく見てないので、これだけの判断するのはあまりにも無理があるが、2005年以前のほうが面白かった(というか熱かった)という僕の考えと偶然合致したので、挙げておく。

また話が逸れてきた。というか、もう何が何だかよくわからないのでw、今後どうなるかを少しだけ…。

佐々木敦『 ニッポンの思想 』では、ゼロ年代において、東浩紀氏が批評空間(批評が好きな人が集まる文化圏)の覇者になったとし、そうなった理由を東氏が「ゲームボードの設定」に成功したためだと書いている。

この「ゲームボードの設定」という言葉は、ゼロ年代における「ウェブサービスの制度化」という状況を説明するのにもふさわしい。なぜなら、上で述べたニコニコ動画、Youtube、mixi、twitter、各種blog、iTunesなども、結局はゲームボードの設定に他ならないからだ。僕にはこのゲームボードはが少し窮屈に感じられるが、その後ろ側に拡がる膨大な量のデータベースの前には、その窮屈さを叫ぶ声などすぐにかき消されてしまう。

佐々木氏は次の本のタイトルを『未知との遭遇』としており、筑摩書房で始まるゼロ双書シリーズのチラシでも予告されている。彼のいう未知というのは新たなゲームボードの設定なのか、それともゲームボードの設定変更で見えてくる新しい批評なのかはよくわからないが、ベタな作品論回帰ならそれはそれで寂しいものがある。本人も言うようにシーソーの揺り戻し以外の何ものでもないからだ。

ゲームボードの設定とウェブサービスの制度化がもしも同じような状況を示しているとするならば、揺り戻しを期待するよりも、批評の世界においてもその仕組みそのもの(素人だけで成立しているニコ生のようなエンターテイメントがそうであるように)がユーザーの側に与えられて、作品と批評の関係がユーザー同士の中だけで成立するような形に置き換わっていくと考えるほうが自然な流れである。よって、プロの批評家はユーザー同士のやりとりを記録したログを読み取って、その傾向を読み取りつつ、ウェブサービスの利便性を高めていくためのテキストを紡いでいくことになるだろう。

ところで、宇野氏はよく佐々木氏と対応させて語られていることが多いように思うが、本当は世代的に見てもばるぼら氏やさわやか氏と近い島宇宙で高密度な軋轢を起こしているような気もするがどうなんだろうか?

一気に書いたので、まとめる気なし。エビデンスもない。

Posted by Syun Osawa at 01:09