bemod

2009年10月04日

ニッポンの思想

佐々木敦/2008年/講談社/新書

ニッポンの思想80年代のニューアカブーム以降のサブカルチャー系思想の変遷を扱った本。昨年の文学フリマ でのゼロアカ同人誌の話や 東工大シンポジウム の話まで扱っており、「ムックかよ!」ってくらいにタイムリーな内容になっていた。今どきの新書っぽい。

そもそも僕は、昔から批評に興味があったわけでもなかったので、この本の中で扱われていた本をほとんど読んでいない。そんなわけだから、大塚英志『 『おたく』の精神史 一九八〇年代論 』を読んだときと同様に「なるほど」とうなずきながら、新鮮な気持ちで読んでいた。

同人誌『 Final Critical Ride 』で書いた感想とも重なるが、この本を読んで、宇野氏と佐々木氏のスタンスは似ていると改めて思った。批評対象が所属するフィールドの周辺(郊外)から批評するという方法も、恣意的に選ばれた作品を時評的につなぎ合わせて語る方法もそっくりなのである。だからこそ、宇野&東組と佐々木連合は論壇プロレスを繰り返しているわけだ。

そんな両者を分けているものがあるとすれば、それは恐らく「美的感覚=センス」だろう。センスの「ある/なし」という、エビデンス(汗)のまったくない、しかし多くの人が時代感覚として共有している価値判断によって区分けされるからこそ、センスのある方から無い方への上から目線は解消されることがない(論プロは終わらない)。そして、一般的にはセンスのあるほうが佐々木連合で、無いほうが宇野&東組だと思われているのではないだろうか。

ニッポンの思想風に言えば、このゲームボードは東氏が設定したものとは異なり、これまでサブカル方面の人たちが設定していたゲームボードである。このゲームボードがゼロ年代に入って総崩れになってしまったのは、恐らく行き過ぎた「美的センス」の導入がもたらした結果だと僕には思えるのだ。センスという危うい(だからこそ魅力的な)価値基準が、権威主義的なお墨付きによって固定化されてしまった。本書では批評の精度をを決めるものの一つとして東大卒などの学歴を挙げているが、それと同じロジックで坂本龍一やジム・オルークは持ち出されていなかったか。

ゼロ年代は価値がコロコロと転倒してしまうため、センスの「ある/なし」という評価を下すのはかなり難しくなっている。かつて、ビックリマンとドキドキ学園というシール付チョコレートがブームになったが、これを例に取れば、どちらのシールを集めるほうがよりセンスがあるかなんてことは、今の時代、狭義にも広義にもその意味の無いことないことだ。昔なら、人気のあったのはビックリマン、マニアはドキドキ学園という図式は可能だったが、今は、捉え方によってどちらをセンスありと言うことも可能なのである。

さらに、上記の区分けは、東氏が ブログ で佐々木氏に対して熱い言葉を投げかけているように、作品論・作家論/社会学・工学的なハイブリットな論(ポストポスト構造主義?)を分かつものでもあると思う。佐々木氏は2010年代に作品論・作家論が復権することを願っているようである。僕は絵画については作品論に拠った美術批評を読むのが好きなので、そういう意味では佐々木氏の思いには共感できる部分が結構ある。ただ、ほとんどの読者にとって、誰がどの作品を褒め、どの作品をディスってるかだけが流通している「ニッポンの思想」市場においては、作品論・作家論の可能性など即効で矮小化され後者のゲームボードに取り込まれてしまうことだろう。

それはさておき、状況として面白いのは、センスのあるはずの佐々木氏のほうが東氏へ思いを募らせている点である。ダサいがしかし馬力のあるオタク学者=東氏にちょっかいを出す、お洒落なサブカル教養主義者=佐々木氏という構図は、一体何なのだろうか? 僕にはよくわからない。佐々木氏に「センスのある俺」が垣間見え続けている限りは、東氏にとって彼の存在は、ウザいものであり続けるのだろう。

ただ、この点に関しては深く踏み込めない。なぜなら僕は佐々木氏の本をほとんど読んだことがないからだ。彼の著書に関して、僕は前々から『ex-music』という本を読もうと思っていた。ところが読まないままにズルズルと来て、なぜだか『ニッポンの思想』を先に読む形になってしまった。

これはちょっと失敗だった。『ニッポンの思想』では「センスのある俺」的な佐々木氏はあまり見えてこないので、本当はちょっと違うのかもしれない。全然違うのかもしれない。だから誰かマッピングして! …という風にすぐ思うからニッポンの思想市場にいる僕のような情弱読者はダメなんだろうなw

Posted by Syun Osawa at 01:38