bemod

2009年10月20日

ヒーローと正義

白倉伸一郎/2004年/子どもの未来社/新書

ヒーローと正義平成ライダーシリーズのプロデューサーが書いたヒーロー論。宇野常寛『 ゼロ年代の想像力 』と同人誌『 Final Critical Ride 』で、著者の名前が頻繁に登場していたので、きっとゼロ年代を知る上で重要な人物なのだろう思って、読んでみた。で、いろいろ納得。決断主義を乗り越えるっていう『 ゼロ年代の想像力 』の主張は、この本の影響下にあったのね。

この本でまず驚かされたのは、怪獣(敵)の存在意義をカードコレクションに収まるような自己完結性と〈わたしたち〉を脅かすワンパターンな行動原理に求めていることだ。視聴者が望んでいるのは結局それだけだという冷めた分析は、長年ヒーロー物の制作に携わった人間にしかわからないような諦念と葛藤の中から導き出されたものなのだろうか。

また、怪獣(=敵)からわたしたち人間を守ってくれるヒーローの役割について異議を唱えている。これまでのヒーローは〈わたしたち〉と〈あいつら〉を分かつ境界線を規定する装置としても機能していた。そして、ヒーローはその境界線を侵犯してくる〈あいつら〉を、社会のルールを越えた超越的な方法によって叩きのめす。このワンパターンを擬似的に繰り返すことで醸成された道徳というものが、戦後日本の「悪い場所」をつくった…とまでは書いていないが、そういう生ぬるいことでは、今の時代はもう駄目だと言いたいようである。

だから、〈わたしたち〉と〈あいつら〉が捏造され、〈わたしたち〉が正義であり、〈あいつら〉が悪であると決め付ける手法はもう通用しないし、ヒーローはその境界線を明確にするための超越性をもった存在ではいられないのだ。にも関わらず、日本のウェルメイドなヒーロー達は、ルールを乱すやつを一方的に悪とみなし、徹底的に叩きのめすことで〈わたしたち〉と〈あいつら〉の境界線を隔て続けている。

著者はこうした状況にダメ出ししている。そして、まず混沌そのものを受け入れ、ヒーローの超越性を否定し、つねに境界(正義と悪)に対して両義的な存在であるべきだと主張している。正義の不在が叫ばれる昨今、たしかにこの主張は現実に対応しているし、興味深い考え方だと思う。「切れる子ども」の話題に触れて、「先手を打ってキレだしたのは、社会の側であり、ヒーローたちの側ではないだろうか。」と主張されていたことも、僕はそれなりに納得した。

しかしながら、この問いかけは、逆もまた成り立っていることに気づくべきだろう。例えば、政府の雇用政策について、改革推進派は「今のままでは生ぬるい。正社員の既得権益を剥がして、さらに流動化を推し進めるべきだ」と考え、慎重派は「まずは人々の暮らしを守るべき。そのための正社員化は当然の権利だ」と考える。この状況を上の話に当てはめれば、白倉氏の主張は改革推進派である。よって、戦前の日本の姿に共同幻想を求めている人にとっては、この本に書かれていることは許し難い主張であること間違いない。

なお、印象としては、岡田斗司夫『 「世界征服」は可能か? 』と近いニュアンスも感じられたが、アクセルの踏み込み方は『ヒーローと正義』のほうが上だった。

Posted by Syun Osawa at 00:23