bemod

2011年01月19日

マルサの女

監督:伊丹十三/1987年/日本

マルサの女伊丹十三という名前を聞いて、最初に頭に思い浮かべる言葉はおそらく「マルサの女」だろう。彼が手がけたこの作品によって、多くの人は「マルサ」という耳慣れない言葉の意味が国税局の査察部だということを知るようになった。エンターテイメントの力で観客をひきつけながら、監督が意図したテーマや知識を観客に強く記憶させるという技術は、『 お葬式 』からさらに磨きがかかっている。

彼の作品に登場するものは、人であれ物であれ、そのテーマに明確な輪郭を与えるための生々しさを持っている。その一番の要因が配役にあることは間違いない。例えば、山崎努の愛人はモデルのような美人ではなく、本当に場末のスナックで知り合ったような女性である。世の中をナイフでスッと切り取ったときに見える断面、そこに映っている人々をそのまま演者にしたような配役は素晴らしいと思う。

その一方で、彼の作品に登場する人物像はマンガのキャラクターのように記号性が強い。普通こうした記号性の強さは、生々しさの対極にあるものを浮かび上がらせるように思えるのだが、その記号性ゆえに余計な情報が排除され、作品のテーマがより明確になっている。

ミンボーの女 』の感想で少し書いたことでもあるが、伊丹作品を構成するものは、そのすべてのベクトルがテーマに向かっているため、教材ビデオ的な側面で見ると非常に優れている。今回の映画でも、ただ笑って映画を見ているだけで税金に詳しくなってしまった。

とはいえ弱点がないわけではない。あまりにテーマに寄り添いすぎているために、映画公開当時の時代性が強く反映されてしまうことだ。記録映画ならそれでもかまわないのだが、上で教材ビデオ的と書いているように、何かしらの処方箋としても機能する映画だけに、20年後に見るとさすがに古めかしい印象を受ける。この映画はコメディとしての側面も持っているので、笑いの同時代性がそうした印象を強めているのかもしれない。

そうした古さは、笑いと社会を扱った作品の宿命と言えるべきものだから、むしろ設定された時代がどこまで躍動感を持って切り出せているかを見るべきなのだろう。そして、そこから見えてくる普遍性(人間の変わらない罪深さとか)のほうに目を向けるべきなのだ。実際にこの映画はそうなっている。

伊丹作品から学べることは多いので、どんどん見ていこう。

Posted by Syun Osawa at 00:52