bemod

2005年11月05日

音楽・美術の戦争責任

矢沢寛、小沢節子/樹花舎

音楽・美術の戦争責任魔女狩りみたいな本で、かなりテンションが下がった。戦後50年でかつての戦争から平和を考えようとかじゃないですからね。「戦争責任を追求しよう」ですから。ここだけ時が止まってるみたいでちょっと恐いです。巻末の資料がかなり豊富で『 イメージのなかの戦争 』よりも実用的なのが唯一の救いかも。

この本の中では音楽を矢沢寛さん、美術を小沢節子さんがそれぞれの芸術の戦争責任の所在について語られています。ただし、小沢さんの方は戦争責任って言ってもかなり抽象的で、話がぼやけていて、その分、芸術性について語られているからギリギリ読める。とりあえず、東京近代美術館にある戦争画をすべて公開しろって言ってるし(たしかに見たい)。

ところで、本書のような戦争画を反戦的に捉える言説の中でいつも松本俊介さんが出てくるが、僕にはちょっと違和感がある。たしかに松本さんは戦時下にあって戦争画を書かない態度を「生きている画家」という文章で表明した。だからといって、その言葉がそのまま反戦的な勢力の道具にされるというのが、短絡的で好きになれないのだ。

彼のカッコいいところは「一人の自由な画家であれ」と言ってるところなわけで。それは、この本の中でも参考資料として紹介されている「芸術家の良心」(戦後、戦争画の責任問題について朝日新聞へ投稿したが没にされた原稿)という文章の中からも伺える。戦争画を描いた藤田嗣治さんと宮本三郎さんに対して

戦争画は非芸術的だと言ふことは勿論あり得ないのだから、体験もあり、資料も豊富であらう貴方達は、続けて戦争画を描かれたらいいではないか、アメリカ人も日本人も共に感激させる位芸術的に成功した戦争絵画をつくることだ。

暴走族をカッコイイと言ってる人に、なぜ20歳を過ぎたら暴走族を辞めるんですか? と言ってるみたいで良いですね。自分の信念を貫けと。それが芸術家の生き方だろ? と言ってるように感じます。それを反戦運動に持ち上げて芸術性をうやむやにさせることが恐い。菊畑茂久馬さんも『 フジタよ眠れ! 』(葦書房)の中で、

平和の鬼達が戦争画家の手に一瞬照りはえた権力の内景まで切り落としてしまったのである。

と書いている。この本は戦争責任について書いているが、そもそも戦争責任が完璧に果たされた戦争なんてこの世の中に存在するのだろうか? そして、画家に戦争責任をとらせるということは、反省ザルのように「反省」と言われれば、即座に反省ポーズをとるようなサルになれという事だろうか?

小沢さんは最後にこの話を以下のような文章で締めている。

戦争と言うのは相手のあるものであって、その他者との出会いの体験の中から何をくみ出していくかというのが戦後の問題になるわけですが、そういう他者との出会いを日本の芸術家はどういうふうに発見してきたかということを検討することも必要だと思います。

この言葉は、実は今もなお抗日戦争画を描いている中国の画家達にそっくりそのまま当てはめなければいけない言葉かもしれない。これに関しては、神田古本まつり の時に手に入れた本があるので、そちらで触れると思います。

もしも芸術が相手を傷つけることがあるのだとすれば、芸術によって戦争を知らない日本の子供達を傷つけることもあるのです。犯罪者の子供は犯罪者ではないんだから。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:46