bemod

2006年09月27日

ポップアート 1960's−2000's

2006年7月8日−9月3日/損保ジャパン東郷青児美術館

ポップアート 1960's−2000's僕はポップがわからない。

ポップは「かっこいい」とか「かわいい」という言葉を内包した言葉であるらしい。ポップであることを好む男女は自分の同世代を含めたくさんいることも知っている。

ただ、手塚治虫さんが『 ぼくはマンガ家 』(角川書店)の中で「かっこいいという言葉は、子どもの頃にはなかった」と書いているとおり、「ポップ」が内包している「かっこいい」や「かわいい」という言葉そのものも決して古い言葉ではない。そして、そうした新しさから取り残されている僕は、古い人間という事になるのだろう。

ポップアートが 戦争と芸術 という視点でも興味深いのは、戦前のプロパガンダ広告がポップアートに少なからず影響を与えている点である。戦意高揚のためのシンプルで誇張されたイメージ戦略は、広告の世界でも大いに生かされた。ポップアートのアーティストが看板屋などで生計を立てていたことも含め、その関連性は強いように思う。

とまあ、ここまでは実に真っ当(かな?)な歴史のお勉強。僕自身がそれでも「ポップ」に対して距離を感じてしまうのは、アーティストの「俺はこれをかっこいいと思うが、お前らどうよ?」「私はこれをかわいいと思うんだけど、あなたはどう?」という投げかけに対して、客がどのように受け止めたかを競っているように思えるからだ。表現者と観客のセンスが上手くかみ合うことで作品が成立するという。

そのため、「かっこいい」とか「かわいい」という対象は時代ともに変化する(もちろんすべてではない)。日常生活を通して起こる「あっかわいい!」といった感情はあぶくのようなものだし、そのような受け止め方をすれば、ポップアート個々の作品の受け入れられ方も時代とともに変化してしかるべきだと思うのだ。にもかかわらず、今もなお、ウォーホールだとかリキテンステインがもてはやされるところに疑問がある。それって、権威主義的に成り下がってるんじゃないのか? もはやそれはポップとはいえないんじゃないの? という意味で。

この点については、エレクトラグライドというイベントで クラフトワークのライブを見たとき に感じた感覚とも無縁ではない。斬新さを確認することはポップ足りえるのだろうか? ポップがわからない僕が言うのだから、こんなことは戯言に過ぎないわけであるが。

自分で書いていて意味不明な文章になっていることは薄々感づいている。でも推敲する気力も無いのでこのまま放置。こんな雑文を垂れ流したくなったのも、今回の展示会自体が何だかよくわからない代物に映ったからだ。モダニズムとしての抽象絵画も出てくるし、ポスト何やらの芸術も出てくる。ごった煮感は嫌いではないが、散漫な印象を受けてしまった。

戦争と芸術 に話を戻すと、ポップを経た今、ポスト何やらの連鎖の中で、瞬間の「かっこよさ」や「かわいさ」を追求する芸術が戦争とどういった関係性を持つのかは僕の中で一番熱いテーマである。ニューヨークでテロが起こったときに、『美術手帖』か何かの美術雑誌で平和の特集が組まれたことがある。僕はその紙面を眺めて、あまりの無力さに驚いてしまった。「かっこよさ」や「かわいさ」を追求するあまり、そのテーマの希薄さに(現状把握の甘さにと言い換えてもいいかもしれない)気がつかないのだ。こんなものは電波なオタク中年の印象でしかないのだが、この印象を逆に考えるならば、平和について無価値な芸術は戦争にとっても無価値なのではないかとも思うのだ。

また、芸術の中においては、「萌え」は僕の中では「ポップ」と同列の扱いをするべきだと考えていてるが、このあたりはもう少しいろいろと作品を見ないといけなので、どこまでも保留。戦前以降の作品は、サム・フランシスとかジャクソン・ポロックあたりの抽象絵画までで興味が完全に止まっているからなぁ…。

Posted by Syun Osawa at 00:21