bemod

2009年08月11日

ロシア革命アニメーション

2009年6月20日−7月10日/日本/アニメ/UPLINK X

ロシア革命アニメーションプログラムA、Bともに観賞。

戦争と芸術 の絡みで昔からずっと見たくて、今回ようやくその夢がかなった(いくつかはYoutubeですでに見ていたが…)。ただ、観る前に自分でハードルを上げてしまっていたせいか、思ったほどは面白くなかった。

ここでいう「面白さ」とは、トンデモを楽しむという意味での面白さと、プロパガンダ作品の中に宿る芸術性という意味での面白さの両面を指している。前者のほうで楽しめる作品もあったのだが、作品の多くが戦時下のイデオロギーをただ従順にトレースしているだけのように思えたし、後者のほうでも自分たちの芸としてどのように消化するかっていうところの踏み込みが甘いようにに思えた。その点では、エンターテイメントとしてあくまで客を引きつけることを重視してつくられたアメリカのプロパガンダアニメのほうが遥かに優れているように思う。

もちろん「優れている」という表現が、芸術性が高いということを示すのか、プロパガンダの効果が高いということを示すのかで判断が分かれるだろう。それでも、ソヴィエトの作品はどっちつかずで中途半端なものが多いのに対して、アメリカの作品はもともと観客の興味を引きつけるために作られており、今の商業アニメの方針とも大差がない。そして近年では、このスタイルによってつくられた作品の中に芸術性を見ていこうとする動きも多く見られるわけで、そうした意味でもロシア・アヴァンギャルドのような芸術運動の中にプロパガンダの要素を組み込もうとして失敗した作品たちは、すべての意味でアメリカのプロパガンダアニメ作品にボロ負けしているように感じた(これはアニメに限った話である)。

その原因として考えられるのは、アニメの表現手法がすべて(と言っていいかはわからないが)アメリカの影響下にあり、それがスターリンの時代に徹底されたことでロシア・アヴァンギャルドの運動と切り離されてしまったことが挙げられるだろう。そのため、ロシア・アヴァンギャルド風の作品もあくまで「風」であって、絵画や彫刻に起きたような新しい芸術の潮流を引き起こすことはなかったように思われる。

唯一肯定的に捉えてもいいと思うのは、プロパガンダによって表現が制限されるというよりも、プロパガンダであることを前提にすれば何でも監督の好きなように作れたという点である。

資本主義の世界では「売れる/売れない」が前提になっているため、一見自由に見れるが、作れるものはかなり制限されてしまう。だからこそ、ピンク映画とかエロゲームの業界のように、エロを前提にすればある程度の自由が許される場所で新しい表現が生み出されるのであって、そうした意味ではソヴィエトの国策アニメの中にも、そうした幸せな状況はあったのではないかと考えられる。国は違うけど、イシュトヴァーン・オロス上映会&トークショー でも、国営のアニメ制作所に在籍した頃に自由が制限されていたとは語られていなかったし…。

そいう視点で眺めると、今回の作品群の中ではタラソフの作品がエンターテイメント作品として群を抜いて面白かった。この面白さは、たぶんソヴィエトとかプロパガンダとか、ましてや戦争記録画のようなものとはまったく関係がない面白さだと思うし、ソッツアートの文脈に入るのかどうかもわからないので何とも言えないが、ともかく他の作品も見てみたいと思わせる魅力があった。

話は変わるが、今回のイベントは2回参加して、そのうち1回は黒坂圭太氏のトークイベント付きだった。しかも、僕自身待ち望んでいる黒坂氏の新作『緑子』の一部が見れたので、何気にこれが一番の収穫だったかもしれない(音が出てなかったのは残念だが…)。

以下、観賞メモ。


プログラムA

ソヴィエトのおもちゃ

by ジガ・ヴェルトフ/1924年

20年代のアニメってアメリカ以外はどこも似たようなクオリティなんだな。良く言えばウィンザー・マッケイっぽい。当時のカメラ撮影などの技術力も含めて考えれば、当たり前かも。逆に当時のアメリカのアニメは何であんなにクオリティが高かったんだって話になるわな…。あと、ソヴィエトという言葉の持っていた意味は、現在と当時では大きく違っていたんだろうと思う。

用心を怠るな

by ニコライ・ホダターエフ 他/1927年

絵柄はわりかし好きだったんだけど、あまり強く印象に残ってない。国債をネタにしてるところが、プロパガンダとはいえ面白い。国債を買おうっていうプロパガンダなら今でもずっと有効だし。ただ、社会主義革命と国債という組み合わせは、あまり食い合わせがいい感じがしない。

ファシストの軍靴に祖国を踏ませるな

by アレクサンドル・イワーノフ、イワン・イワノフ=ワノー/1941年

1941年といえば独ソ戦が開始された年。ソ連国内ではスターリンによって大粛清が行われた後で、ロシア・アヴァンギャルドから社会主義リアリズムへと移った後に作られた作品ということになるのかな? ディズニーをもろに意識して作られた作品で、模倣とはいえそのクオリティは高い。スターリンもヒトラーもディズイーアニメを愛しており、それが結果としてアニメーション制作の技術力を高めたということであれば、皮肉な話だ。しかし、その一方で芸術的な観点で見た場合、アニメ作品の世界的な平準化が、この時期からすでに起きていたとも言えるかもしれない。

監督の一人であるイワン・イワノフ=ワノーは『 森は生きている 』の監督。『森は〜』が1956年の作品だから、スターリンの大粛清を乗り切って、そのキャリアを積み上げていった数少ない監督なのだろう。

百万長者

by ヴィトールド・ボルジノフスキー、ユーリー・プルィトコフ/1967年

このキャラクターは風刺漫画っぽい。1967年頃のソ連ともなると、もはや僕にはどういう社会状況であったのかを想像することさえ難しいが、1968年となれば日本では学生運動においては重要な年で、最近でも関連本が多数出版されている。で、世界ではベトナム戦争が続いていると…。資本主義に対する不信感が批判精神を持ち、そこからの連帯がまだ可能であった時代に作られていることを考えても…単なる風刺漫画にしか見えんなw

予言者と教訓

by ヴャチェスラフ・コチョノチキン/1967年

67年くらいになるとリミテッドアニメの土壌もできてきて、かなりルーチン的にこの手の作品はつくることができたような気がするのだが、実際のところはどうだったのだろうか? 冷戦時代なので何気にこのあたりのアニメ関連の情報が一番乏しい気がする。

狼に気をつけろ

by エフィム・ガムブルグ/1970年

雰囲気はかなりいわゆるアートアニメ的なつくりになっている。パンフレットにはダーク・プロパガンダと書かれているが、どのへんがプロパガンダなのか全然わからなかった。戦闘員として再教育を受けるというのは、右左関係なくやってることで、それが殺人マシーン的だということだとしても、アニメの世界ではエンタメ的に受け止めてしまうとアリになってしまう。

電化を進めよ

by イワン・アクセンチュク/1972年

題名の通り「電化が進んでるよ」というだけの内容なので、たぶん制作するほうももてあましてるんだろうなと思われる。それだけのお題で映像膨らまそうとするから何だかいびつになるわけで、そういう視点で見るとそのいびつさこそがソヴィエト・プロパガンダの一つの側面とも言えそうな気がしてきたw 電気を引くための鉄塔同士が手を結ぶとバチッと光が通じるくだりとか、ほんとどうでもいいわけで。何というか、意味づけの弱い映像。

射撃場

by ウラジーミル・タラソフ/1979年

全プログラムの中でこれが一番面白かった。1979年の作品なので、さすがにこのレベルの作品であっても、同じ時期に宮崎駿が『ルパン3世 カリオストロの城』を作ってしまっていることもあって、突き抜けた目新しさを感じるということはない。ただし、社会風刺を真正面からやっているアニメ作品は日本にはほとんど存在しないと思われるので、そういう意味では貴重なのかも。アメリカの資本主義を皮肉ってはいるが、ソッツアート的な意味合いも含んでいるのかもしれないな…。


プログラムB

惑星間革命

by ゼノン・コミッサレンコ、ユーリー・メルクーロフ、ニコライ・ホダターエフ/1924年

『オタクアミーゴスの逆襲』で取り上げられていた作品。いろんな手法がごちゃまぜになっていて、どれも微妙なクオリティ。1924年という時代を考えれば、クオリティは仕方ないわけだけど、プロパガンダの手触りが単なる悪口とかそういう子供じみたレベルなので、そこはもう少しロシア文学的な昇華をしてほしい気がした。

レーニンのキノ・プラウダ

by ジガ・ヴェルトフ/1924年

当時は図像が動くってだけで受け入れられたんだろうし、ましてや実在の人物がキャラ化して、そのキャラが動くわけだからかなり高度な消費を要求されているはず。1924年ならこのレベルのプロパガンダでも十分に通用していたのかな? 時代の空気感がわからないので、何とも言えない。

勝利に向かって

by レオニード・アマリリク、ドミートリー・バビチェンコ、ウラジーミル・ポルコヴニコフ/1939年

完全にディズニーの影響下にある。この頃は、アメリカだけでなくドイツでもソ連でもディズニーは消費されていた。そういう意味では、ディズニーは完全に当時で言うところの前衛に立っており、アニメ界では本当に神だったんだろうね。ところで、監督の数が多すぎるのはなぜ?

映画サーカス

by レオニード・アマリリク、オリガ・ホダターエワ/1942年

これはイントロでチャップリンのような司会者が登場する。ナチスのヒトラーに尻尾を振っている国を犬に見立ててバカにしている様子などを描いており、他国から見ればかなり挑発的な内容になっている。ただし、当時この映画は自国内で見られていたのではないかと想像するに、作品の意味はどれほどだったのかはわからない。これもディズニーというかアメリカ的なアニメの手法でつくられている。当時は同じ連合国にいたわけだから、そのへんの技術の輸入はわりとスムーズだったのかな?

ツイスター氏

by アナトーリー・カラノヴィチ/1963年

この作品にはアニメーターとしてノルシュティン氏も参加していたらしい。パンフレットの中でノルシュティン氏は「イデオロギーが優先すると芸術性が食われてしまう場合がほとんどだ」と書いており、この作品への思いも少しはあったのかも。ただ、他の作品と比べても、この作品は表現の点でそれほど凡庸な印象は持たなかった。

株主

by ロマン・ダヴィドフ/1963年

株主をがっつり描いたアニメそのものが、国内外にほとんど存在しないので、そういう意味ではかなり貴重な作品のようにも思える。書籍ではフィクションの作品よりも実用書のほうが多いのに、アニメでは実用書的な作品はほとんど見られない。プロパガンダ作品というのは、実用書的なベクトルにも従属なのかな? …とかいう疑問も少し湧いてきた。

生かされない教訓

by ワレンチン・カラヴァエフ/1971年

結構、展開なんかも上手くて、表現に味があるな…と思ったら、70年代の作品だった。さすがにこのあたりになってくると、ディズニー一辺倒の表現も薄まり、独自のルーチンで作品を仕上げるようになっているためか、面白みが出てくる。

前進せよ、今がその時だ

by ウラジーミル・タラソフ/1977年

タラソフはなかなかいいな。この上映会があるまで全然知らなかった。この作品は『射撃場』とは趣が違って、かなり抽象的なイメージが強い。少し宗教がかかっているようにも見えるし、『アニマトリックス』という短編アニメ集の中のピーター・チョン監督「マトリキュレーテッド」あたりにも似た雰囲気があった。でも、幸福の科学の映画と比べると、宗教的な破壊力はいま一歩といった感じ。あと、これはもはやプロパガンダでもない気がするんだが…w

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 13:43