bemod

2009年08月26日

無限を求めて ― エッシャー、自作を語る

M・C・エッシャー/訳:坂根厳夫/1994年/朝日新聞社/四六変型

無限を求めて ― エッシャー、自作を語るヤバい。エッシャーいいわw

先日、奇想の王国 だまし絵展 に何気なく出会ったエッシャーの絵がとても良くて、その後も少し気になっていた。展覧会では、エッシャーの作品は小さな扱いだったが、絵の中に外部のフレームを描くといった古典的なだまし絵の作品よりも、エッシャーの作品のほうが、昨今のポストモダン的な世界の状況を上手く写し取った形でだまし絵に昇華させている気がしたのだ。

エッシャーと言えば、上から下へ流れ落ちた水がいつの間にか上に戻ってくるという《滝》などの絵が有名だが、僕はこの本で「平面の正則分割」を軸にしたパターンこそがエッシャーの真骨頂であることを知った。例えば次の《昼と夜》などはわかりやすい。

エッシャー《昼と夜》

黒と白の鳥の輪郭がそれぞれの身体を補完しあっており、黒の鳥に注目すれば白の鳥は背景となり、白の鳥に注目すれば黒の鳥が消え去る。これはただの図像のトリックのような印象を受けるかもしれないが、彼はこうした絵画に「無限」を追い求めているのである。次のような絵画はさらにわかりやすい。

エッシャー《循環》

この《循環》という作品では、三次元の人物が二次元になり、記号化することによって無限に続くパターンへと移行していく姿をかなりベタに描いている。そのほか、次の《爬虫類》という作品では、絵の中でパターンの一つを形成しているトカゲが絵の中から外に飛び出して、再び絵の中に帰っていくという循環を描いている。

エッシャー《爬虫類》

一部には、これらの作品に霊魂再来説を期待する声もあるらしいが、エッシャー自身は説教や象徴的な意味は込めていないと繰り返し述べている。僕は彼のイデオロギーのないパターンの世界に、記号に埋め尽くされた再帰的な日常といった今日的な社会状況を読み込んだ。

もちろん、《滝》などの永遠の運動も見過ごせない。無限階段なども含め、リアルな立体モデルを使った不思議な空間には閉じた世界の人間の有り様が見てて取れる。《相対性》では複数の人間が同じ階段を利用しているにも関わらず、使っている次元が違うためにお互いがお互いに気づくことができない。このモチーフは イシュトヴァーン・オロス氏の作品 でも登場しており、その意図上手く昇華している。

そこにあるのは、絶対的な孤独である。そして、彼の描くパターンの世界でも同じことが言える。黒と白が密接につながっているにもかかわらず、その両者を同時に眺めることができない。つまり、互いの生存のための条件が、互いの存在を否定することになっており、相互関係が失われているのだ。

無限に繰り返され、増殖していくパターンの世界では、黒と白が織り成すダブルイメージから逃れることはできい。しかしイデオロギーはなく、そんな世界を境界線によって規定することもできない。先日、セカイ系のイベント に行ったこともあって、これらのエッシャーの作品世界を体験しているうちに、ギデンズが言うところの社会の再帰性やセカイ系のイメージがぼんやり浮かんできたような気がした。

Posted by Syun Osawa at 00:38