bemod

2011年01月10日

催眠術の日本近代

一柳広孝/1997年/青弓社/四六

催眠術の日本近代松尾匡『 図解雑学 マルクス経済学 』とか『 不況は人災です! みんなで元気になる経済学・入門 』あたりを読んでいる頃から、依存ビジネスについて考えることが多くなってきた。依存ビジネスという言葉に正式な意味があるのかも、またそもそもそういう言葉があるのかどうかも僕は知らない。それでも僕がこの言葉にこだわるのは、これからのビジネスが物の価値をベースにしたものよりも、心の価値をベースにしたものに重点を移していくと考えるようになったからだ。

…と言っても、僕がその心の価値がどのようにビジネスに還元できるのかを具体的に把握しているわけではない。しかもどういう方向でその問いに対して解を見つけていっていいかもわからない。仕方ないので、パッと頭に浮かんだ催眠術に関する本を読んでみることにした。この思いつきはあまりに単純で、「催眠術は心を操作する術である」と解釈したからにすぎず、それ以上の意味は何もない。

で、最初に選んだのがこの本だった。

日本における催眠術の歴史が書かれた本である。いきなり催眠術のかけ方の本を読んでも良かったのだが、ニセ科学フォーラム 程度には科学リテラシーを持っていたいということもあって、偽科学的な批判がある程度込められたものを読んでおきたかったのだ。

この本によると、催眠術は明治時代に西洋から伝わり、何度か大きなブームになっていたようだ。そして、日本の伝統的な幻覚の「術」とが重なり合いながら人々の暮らしの中に浸透していったようだ。今のように科学が発達していたわけでもなく、偽科学に対するリテラシーも低かったであろう当時に、これらの「術」が一般大衆の心を掴んだ事は想像に難くない。むしろ意外だったのは、当時から催眠術をいかがわしいと思っていた人がたくさんいたことだ。例えば、森鴎外も「魔睡」という小説でそのいかがわしさを描写している。この点については、明治時代も今も催眠術の受け止められ方に大差がないようだ。

こうした背景には、催眠術を使った性犯罪が繰り返し起きていたことが原因としてあるのだと思われる。今でも催眠術師は男の人が多いらしく、どうしても性的な欲望を満たすための技として用いられているイメージが消えない。しかし、そうした不純な動機からくるいかがわしさとは別に、催眠術の「術」としての魅力は残る。

その「術」としての催眠術が科学的にどのよう解明されているのかはこの本ではわかからなかったが、催眠術を巡る論争(千里眼事件など)やフロイトの登場などを契機にして、学者達は心理学などのより普遍的な領域へ関心空間を広げていったようだ。だから「催眠術とは何なのか?」という直接的な問いは曖昧なまま残り続け、今日に至ったということなのだろう。

よーするに、よくわからない催眠術という「術」としての謎は今もまだ有効であり、そうであるがゆえに数多くの催眠術師がテレビなどにも登場しているのである。これは人の心の依存度を扱った依存ビジネスの不明瞭さとも相性が良さそうだw 次はより具体的に催眠術師による「術」のレクチャー本から依存ビジネスについて考えてみようと思う(本当は催眠術を偽科学批判的に扱った本を先に読みたかったのだが、これといったものがなかった)。

Posted by Syun Osawa at 20:58