bemod

2006年02月14日

美術手帖 1977年9月号

美術出版社/雑誌/A5
特集:戦争と美術―戦争画の史的土壌

美術手帖 1997年9月号古本屋を巡ると、戦争画関連の話題が盛り上がったのは1970年代と1990年代らしいことがわかってくる。1970年代に盛り上がったのは大きく分けて2回。

アメリカに接収された戦争画が「永久貸与」という形で返還された1970年と、それらの戦争画のうち50点あまりを東京国立近代美術館で一般公開しようとしたものの、曖昧な理由で公開中止になってしまった1977年3月。1990年代の方は湾岸戦争とPKO法案のあたりらしい。

この雑誌での特集は、2度目の盛り上がり時期に組まれた特集のようだ。一番最初に掲載されている針生一郎「われらの内なる戦争画」で提起されている問題は、今も変わらず残っている。それは戦争画は克服されたか? という問題。

わたしの持論によれば、戦争中の「滅私奉公」の裏返しで、戦後の日本人は私的欲望の充足を「自由」と考え、依然として私的欲望をこえた共通の課題としての、おかみとは区別される人民の「公」をみいだすにいたらなかった。ところが、戦前を上まわる復興をとげた独占資本主義は、まさに消費者の私的欲望の充足に焦点をあわせて、商品を生産し、欲望を操作・造出し、市場を形づくるから、私的欲望の充足を自由と考える日本人は、必然的に巨大な管理社会の部品に組み込まれてしまった、というのが戦後三十二年の大まかな総括である。
(中略)
私的欲望の充足に終始して、人民の「公」をみいだしえず、自己と個性の表出に終始して、みずから民衆にむかって伝達、流通の回路を切り開く展望をもたないかぎり、わたしたちにとって依然として上からの公共性としての戦争画の問題は消え去っていない、といいたいまでである。

この文章の中では万博への国民の動員のされ方についても言及している。万博を戦争画と絡めてというのは、近年では美術評論家の椹木野衣さんが何か書いていたように記憶しているが、どうだったかな?

ほかにも、戦前の美術雑誌『美術』から、藤田嗣治「戦争画制作の要点」と座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか」が再録されている。座談会の方は、『 戦争と美術 』など戦争画関連の書籍でよく登場する有名な座談会で、今なら絶対に成立し得ないような会話が登場して面白い。中でも鈴木庫三少佐は冒頭から飛ばし気味。

僕は絵画、彫刻をやる人でも、あるいは音楽をやる人でも、演劇をやる人でも、やはり国防国家建設の一部面を担当しなければいかぬと思ふ。先づ担当するのが国民の義務だと思ふ。それを担当出来ないやうな人は要らないから外国へ行つて貰いたいと思ふ。そこでどういう風に担当するかといふことが問題である。

ここから始まってるわけですから。この時点でかなり凄い展開。要旨としては、自然主義や個人主義がもてはやされている昨今、画家達は金儲けの絵や抽象画ばかりを描いている。そうではなくて、もっと民衆のため、国家のための絵を描け。そのためには国家として強制力を発動すべし。実にわかりやすい。

こうまとめると、ムチャクチャな内容なんだけど、僕が最初に考えていた以上に肝要だなと思う部分もいくつかあった。一つはヌードについて。先ほどの鈴木庫三少佐も

裸体なら裸体を通じて今日の国防国家的な思想感情を生かせばよい。

と言っている(よくわからんけどw)。ほかにも、亡国思想的な感情を起こす歌謡曲「支那の夜」(作詞:西条八十)が儲かったことに苦言を呈しており、黒田千吉中尉などは

国防色にせよといふことになると芸術味も何もない着物になつてしまふのですが、決して陸軍はそんな、裸体画を描いてはいかぬとか着物の色を一色の渋い、子供が祖母の着物を着て出た様な風俗を展出せよとか馬鹿なことは言はふ。

と言っている。ようするに、戦意を高め、国民の国防意識を一つにするような絵を描くことが最大の目的と考えているわけ。でも、昭和19年5月(1944年)の頃には、新聞報道などを受け悲惨な虐殺画なども描かれているし、敗戦の色が出て来ている時期でもある。にも関わらず、劣勢の日本を打破するための芸術の役割みたいなことを論じているわけではない。銀座で若い男がチャラチャラしてるとか、そういう類の話をしてたりする。時期的に考えて、そういう意味ではちょっと能天気な座談会のような気もしないではない。

と、思ったら前に古本屋で買った『みづゑ』(1941年1月号/美術出版社)に同じ内容の文章が載っていた。つまり複数の雑誌に掲載されたというわけですな。そーいや、このあと松本俊介さんが「生きている画家」(同誌4月号)という反論文を書くんだった。納得。

ちなみに、ヨシダ・ヨシエ「天皇・権力・戦争画」という中で、ヨシダさんが上記の座談会にも登場した黒田千吉さんにインタビューをしている。何気にこの雑誌の中で、この部分が一番重要なポイントかも。この中で黒田さんは戦争画の一番の目的について「陸軍省としては、宮内の御府へ記録画を献納しようとしたのだ」と語っている。これはつまり、今なら 聖徳記念絵画館 に入るということか。藤田嗣治さんの《ノモンハン戦闘図》などは当時、遊就館 へ献納されたらしい。また、陸軍省がこの時期に依頼した戦争画はサイズは二百号に決め、二千円を支払ったそうだ。

二千円とは今ではいくらだろうか? 企業物価指数で1941年と2005年を比べて計算してみると、約227万円くらいだった。二百号の絵一枚につき200万円超というのは高いような気がするが、制作期間とネームバリューで言うと妥当なのかな?

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:52