bemod

2010年08月07日

ナショナリズムと芸術生産 第2回「展覧会を通して考える」

2010年7月20日/20:00−22:00/荻窪ベルベットサン

CAMPの企画による女子美術大学教授の杉田敦氏とキュレーターの崔敬華氏のトークイベント。イベントのタイトルに「ナショナリズム」と「芸術」という言葉が入っていたので、自分がチマチマ勉強している 戦争と芸術 と関わりがあるかも…と思って参加。内容的には、僕の支持している考え方とはちょっと違っていて、そうであるがゆえに考えさせられるイベントだった。

僕の支持している考え方というのは、村上隆的な現代美術のコンテクストの読み解き方で、アメリカのコンテンポラリーアートに乗っかった上で日本の独自性・固有性をオタクやアニメに還元しつつ現代美術に組み込んでいくというもの。これは村上氏が自身の著書『 芸術起業論 』 だったり、ニコニコ生放送の番組「芸術実践論」の中で言っている話で、好きとか嫌いとかはひとまず置いて、アートの市場はそこにあるというものだ。

今回のイベントでは、そういう流れ(例えば、国が推し進めるクールジャパンに乗っかっていく手立ても含めて)に違和感を感じている立場からの意見が表明されていたように感じた。僕はこの違和感にも同意したい。というのも、村上氏の超強引なコンテクストに多くの現代美術作家が全乗っかりしていく状況ということにも、妙な違和感を感じるからである。ただし、その違和感の先にあるものが、村上隆氏がニコ生の「芸術実践論」の中で指摘していたように「芸術活動を通して自由になりたい」ということであるのならばちょっと寂しい。やはり、今回のイベントのように、例えばナショナリズムと現代美術の共犯関係を指摘した上で、そこに別のオルタナティブ(もしくはコンテクストの読み替え)が提出されるような類の違和感であって欲しいのだ。

で、その「ナショナリズム」ってことなんだけど、実はこのイベントの冒頭、僕はこの言葉でいきなりつまずいてしまって、あとはずっと「うーん…」って唸るだけになってしまった。僕はこの言葉を上手く飲み込めなかったのだ。

そもそも日本という国は、日本人であることと日本民族であることを同一視している傾向が強いが、アメリカなどではアイルランド系アメリカ人とかイタリア系アメリカ人といったように、国民性(ネイション)と民族性(エスニシティ)が分離しているケースも少なくない。また、宗教がどの程度その人の帰属意識に食い込んでいるかなども含めると、単純に「ナショナリズム」と言って話が片付くわけではない(塩川伸明『 民族とネイション 』)。

暴力的に僕の意見を推し進めると、このイベントで言われている「ナショナリズム」というのは、太平洋戦争以前の日本で共有されていたナショナリズムのことを指していたのではないかと思ったのである。このナショナリズムは、もともと世界というものを知らないまま何となく日本に暮らしていた人々が、明治維新後に急速な近代化と日清・日露戦争によって、日本人であることと日本民族であることを同時に意識するようになったという大文字の物語である。

そして、横山大観などの芸術家は日の丸や桜などの単純な図像を描くことで、その意識をより強固なものにしようとした。戦争画が果たした役割も同じようなものである。つまり、「みんなで築いた日本のナショナリズム」という物語があったわけである。もっと妄想力を生かして言ってしまえば、この時代の日本の美術家のコンテクストは、内部的にはいかにして日本を形作るかだったとも言えるだろう。

それに抗った人間がいないわけでもない。例えば、松本竣介などがその代表格であろう。彼らは戦時下において、多くの画家たちが戦争を主題とした絵を描く一方で、それとはまったく関係のない絵を描き続けた。つまり、自分の描きたい絵を描くというスタンス(自由であること)を貫いたわけだ。他にも非合法時代の共産党に入党して、地下活動を続けながら明確な抵抗を示した人もいたのだろうが、この時代に画家が「抗う」ということは、はっきり言ってしまえば戦争とは関係のない絵を描き続けるということだった。

で、現在。

僕が今回のイベントで「うーん」と唸って考え込んでしまったのは、今の美術業界の中にある「ナショナリズム」ってものが、この当時のまま更新されていないのではないかという疑問が涌いたからだ。たしかに、クールジャパンのオタク文化の押し売りとそれに乗っかっている美術家の振る舞いは、当時の日本の姿に重なるように見えるかもしれない。しかし、その抗い方として、松本竣介のような立ち位置を求めるのだとしたら、その構造自体がすでにステレオタイプに堕してしまっていると言えるのではないだろうか。

かつての「ナショナリズム」は日本国民が一丸となって作り上げた物語である(もちろん、それに抗うということも含めて)。未だにこの物語を更新しないままなのであれば、それは昔の資産を食い潰しているだけのような気もする。いやいや、ナショナリズムの話ってのは、そういう話じゃないだろ…っていう突っ込みのほうがまともなことはわかるのだが、『 靖国 YASUKUNI 』における参拝者の迷走振りなどを見ても、やはり複雑化、重層化するナショナリズムを捉えることの困難さや、故にそれに抗うことの困難さが現在にはあるわけで、そこを放置したまま「いかに抗うか」ということを考えるのであれば、日本の中の堂々巡りが反復され続けることになるのではないか。

うん。何を書いてるかわからなくなってきたぞw

ともかく、そういう前提の話をすっ飛ばして、ナショナリズムに「抗うこと」の難しさというのは、ナショナリズムを高める装置に「単純化」が用いられる一方で、それに抗う装置として「複雑化」が用いられるからなのだろう。単純化=ポピュリズムには人は集まりやすく、複雑化すればするほど人は離れていってしまう。

こういう問題を超えて、それでも複雑化する方法を考えるとするならば、ニコ生やUstreamのような誰でも放送局や、Pixivのような誰でもギャラリーのようなアーキテクチャは、その現象自体は一見すると複雑化しているように見えるので、それなりに有効なツールとして機能するかもしれない。しかし、ワールドカップ時のニコ生を見ると、どの配信もワールドカップ一色に染まっていたから、自体はそう簡単なことではないのだろう。

そんなわけで、僕の考えは少しもまとまらないのだが、ナショナリズムと現代美術を考えるいいきっかけにはなったと思う。戦争と芸術 についての話は奥が深すぎて、僕にはわけがわかりませんw

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 00:27