bemod

2009年11月04日

ポスト・ゼロ年代の批評をめぐって

2009年10月31日/15:00−/タワーレコード渋谷 7F

ポスト・ゼロ年代の批評をめぐって凄いタイトルだなw

音楽のジャンル分けでポストロック系(と呼ばれるもの)なんてのがあるが、一体いつまでポストって言うんだよ?みたいな印象が「ポスト」という言葉にはある。既存の枠組みを超えている印象だけを与えるまやかしなわけだけど、TSUTAYA新宿のCDレンタルも、去年くらいからポストロック棚が別に設けられて、行くたびにその棚と、テクノ棚やロック棚とを往復している人を数人見かける。ポストロックという言葉自体が今や市民権を得て、一つのジャンルと見なしうるから棚を設けた、というのがその真意なのだろうか(そういうマニアな人たちの要望が強かったのかもしれない)。

そもそも、ジャンル分け自体が強引な制度化に他ならないわけで、そこにあえて超越的なジャンルを設けて、オルタナティブな領域さえもまた制度化するというのはいかがなものか…いや、これ全然関係ない話だった(しかも 同じネタ を以前書いたかw)。もう少しだけ関係ない話を続けると、これは一つのジャンルにしか区分けられない“ショップ型の想像力”に押し込められているヘビーリスナー達の憂鬱でもある(CDショップへよく行く人ほど陥りやすい)。今、ネットの世界では一つの作品にいくつものタグがつけられており、その作品の帰属先は複数性をもった曖昧なイメージとして受容されている。だから、オヤジ達の教養主義が見え隠れするロックを軸にして、ポストとかマスとか言い続けてしまうことには、どこか古めかしい特権意識を感じてしまうのだ。

全然関係ない話はさておき…。

このイベントのサブタイトルは「『ニッポンの思想』補講」となっていて、内容は『 ニッポンの思想 』の新聞・雑誌等での評判からネットでの反応までを受けて、それに応答するというものだった。何でも『ニッポンの思想』の中で、90年代は東浩紀の一人勝ちだったと書いたことに対して、各所から「それ違うだろ」的な突っ込みがあったらしく、その言葉は 早稲田文学 十時間連続公開シンポジウム で大森望さんが言った言葉を借用しただけだと弁明されていた。

特にネットでの反応については、山形浩生『訳者解説 − 新教養主義宣言リターンズ』の言葉をひいて、次のようなことを話されていた。今の多くの読者というのは、本を読むという行為に対して、未知のものに触れるというよりは、単純に出題頻度とか語調とかに反応しているだけで、それを自分の中に元々あるストーリーに押し込めて、既存のパターンで理解しているだけではないか。僕はあくまで客観的に書いたつもりだから、特定の言葉にただ反応しただけのような感想には首をかしげるものもあった、というような話(うる覚え)。よーするに、ちゃんと読めてない、ということなのだろう。

客観的な立場を強調されていたのは、東浩紀氏との関係で、立ち位置ばかりが強調されてウザかったというのもあるだろうし、本当に客観的な立場を目指して書かれていたのかもしれない。でも、誰だってそんなことは本質的に無理だろうと思ってるはずだし、著者だって百も承知だろう。

例えば、オバマ大統領はシカゴ大学で講師をしていたが、彼が大統領になった今、どれだけ中立で客観的な立場に立って法や倫理について語ったとしても、アメリカの国益を代表しているという立場からは逃げられない。それは既存のメディアでも同じだろうし、オルファ・ラムルム『 アルジャジーラとはどういうテレビ局か 』などを読むと、その立ち位置問題から逃れること自体、同時代に生きている限り不可能に近い。もちろん、そうであっても客観的な立場を貫こうという姿勢そのものが、彼のリテラシーなのだから、その点は真摯だなとは思えるが…。

とはいえ、僕ただの野次馬なので、少しはエンターテイメントとしての論プロも欲しい。『ニッポンの思想』という本は、ネットでも様々な反応があり、そのぶん違和感の表明も少なくなかったのだろう。しかしそれは、表現者として肯定的に捉えるべきではないのか。例えば、東氏などは、本を出すたびに各所から違和感を表明され、その違和感によって東氏の存在は強化されてきたと言っても過言ではない。それは宇野氏も同様で、彼のアンチ(噴き上がった奴ら)こそが彼の輪郭を形作っているのだ。だから彼の悪口は、元西武ライオンズの東尾が投げた内角高めのように、いわば生命線なのである。むろんそうしたパフォーマティブな振る舞いに陥らないように、努めてコンスタティブに書いたのが『ニッポンの思想』というわけだから、これもまるっきり逆なんだろうな…。

アイドルのイベント に行くために、途中でイベントを抜けたので、トークのオチは知らない。

Posted by Syun Osawa at 01:27