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2009年12月29日

ドキュメント高校中退 ― いま、貧困がうまれる場所

青砥恭/2009年/筑摩書房/新書

ドキュメント高校中退 ― いま、貧困がうまれる場所苅谷剛彦『 学力と階層 』を読んで、教育と貧困の相関が思いのほか高いことを知り、諦念と自己責任の関わりについて考えるようになった。僕の親などもそうだが、よく「最近の子どもは我慢強さがなくなった」と言うし、それが若者問題(ニート問題など)の本質であると捉えている節もある。僕もこれまではそれなりに同意していたのだが、貧困関連の本を読んでいくうちに、「我慢強さがなくなったのは、果たして子どもだけの責任なのだろうか?」と考えるようになったのだ。

この本は、底辺高校の取材を通じて、子どもがいかに諦めて、高校中退し、貧困層に固定化されていくかを明らかにしている。正直こういう実態を知ってしまうと、軽々に「自己責任」は言えなくなる。底辺校には、親から基本的な生活習慣の訓練さえ受けていないような子どもも少なくないのだ。

これに関連した例を一つ挙げる。

生活保護自給者が生活苦を訴えた新聞記事が、2ちゃんねるに晒されて話題になることがある。こうした記事が世間の注目を集めるのは、彼らの生活苦が気の毒だからではない。むしろその逆で、生活保護自給者でありながら、月額数万円の携帯電話代を計上していたりすることに多くの人が憤っているのだ。

このことについて以前、ホリエモンが、「節約するための知識がなく努力の余地がないのでは?」とブログに書いていたが、僕もその意見に同意する。ふざけた話だとは思うが、彼らの未成熟さを単なる個人の能力として処理してしまうのでは、新自由主義者が唱える「機会の平等」さえ与えられない若者たちの実態を、見逃してしまうことになりかねない。

こうした子どもを受け持つ底辺校の教師も大変である。

現場では、「家庭に問題があり、次々に事件を起こす生徒を守るか、低学力でも学び直したいという生徒を守るかの選択を迫られている。」そうで、どちらを選択しても、もう片方の生徒たちは放置されることになる。こうした選択は一般的な学校でもよくあるが、大きな違いは、底辺校から排除された場合、ほとんど行くところがなくなってしまう点ではないだろうか。そういう意味で、底辺校がセーフティーネットのような役割を担わされているとも考えられる。にも関わらず、底辺校に近づくにつれて、高校の中退率は上がっており、また貧困率も高くなっているのだ。

ではどうすればいいか?

この問題の解決は非常に難しい。著者は、こうした状況を克服するために、高校の無料化、義務教育化などを挙げている。素敵なアイデアだが、難しいと思う。僕は問題のある家庭に、定年退職した大人をボランティア補助員として配置することで、家庭環境を含めて底上げをはかる案が頭をよぎったのだが、実態を知らない理想論に過ぎない。単純な解決策として、奨学金や学費免除の割合を増やしてボトムアップをすればいいという声もありそうだが、こちらも金がかかる。しかも、問題行動を起こしたり、友達が辞めた程度の理由で学校を辞めるのは、世間から見れば自業自得だと思われるはずで、単なるDQNの甘えとしか受け取られない可能性もある。

では、放置するしかないのだろうか?

グローバル化した社会の中で、日本がこれからも強くあり続けるためには、教育水準の底上げは重要な課題だと思う。さらにまた、少子高齢化が進む中で、少しでも多くの労働人口を確保する必要があるので、ドロップアウトする人を減らし、またそうした人を再び社会に取り込んでいくことは日本全体の利益にもなるだろう。競争社会がダメなのではなく、競争が避けられないのならば、少なくともできるだけ多くの人を公平なスタートラインに立たせることが「機会の平等」ではなかったか。そう考えると、派遣か正社員かという問題も重要かもしれないが、それ以前のところで排除されている人をセーフティーネットの網にかけることは、実は最も緊急を要する問題なのではないかと思うのだ。

(貧困関連で読んだ本)

苅谷剛彦『 学力と階層
ムハマド・ユヌス『 貧困のない世界を創る
堤未果『 ルポ貧困大国アメリカ
湯浅誠『 反貧困
湯浅誠、堤未果『 正社員が没落する

Posted by Syun Osawa at 00:17