bemod

2010年01月10日

思想地図 vol.4

東浩紀、宇野常寛、中沢新一、仲正昌樹 ほか/2009年/NHK出版/四六判

思想地図 vol.4冒頭に中沢さんのインタビューが載っていて、なかなか難解なことを語られていて読み進むのに苦労した。で、次の仲正氏の論文も面白く、「さすがは思想の最前線!」とか思ったら、その後は妙にサブカル雑誌っぽくなって、あっさり読み終えてしまった。面白かったと言えば面白かったのだが、東氏や宇野氏の話はこれまで何度も耳にしているせいか幾分物足りなさも残った。

それは宇野氏の「ポスト・ゼロ年代の想像力」というエッセイもそうで、彼の著作『 ゼロ年代の想像力 』からほとんど前に踏み出している感じがないのだ。それこそ『ゼロ年代の想像力 v1.01』くらいの前進しかしてないように思える。おそらくこれは、彼が採用した戦略「取り入れて拡張(embrace and extend)」において、彼がある一定のポジションをすで得てしまったことが原因かと思われる。取り入れるべき対象がいなくなったために、当てこするのは未だにロスジェネやらカルチュラル・スタディーズになってしまい、話題が拡張していかないという閉塞状況に陥ってしまっている。ならば、自分で次の一手を生み出すしかないのだが、それはやはり難しいのだろう。

ともかく、ざっくり読んだ感想など。

仲正昌樹氏の論文は、「始まり」の瞬間をめぐる神話化された記憶が日本にはないために、日本は政治や社会をネタにしたアニメが少ないといった内容で、なかなか面白かった。僕もアート系のアニメーション(と言わないと名指せないのであえてそう言う)を見るたびに、「社会が描かれてないよな〜」なんて感想を持っていたのだが、それが単に日本のクリエイターの社会への目配せの無さが原因だと思っていた。東京藝大の公開講座 で山村浩二氏も似たような発言をしていたし、それは間違いないだろうと。

しかし、仲正氏の指摘によると、アメリカやヨーロッパの国では、市民革命や戦争を経て「あらゆる伝統的な拘束から自由な結合」を「始まり」として持っているのに対して、日本では、明治以降の国民国家的な結合に基づいて成立しているために、本来の自己イメージを拡大(もしくは回復)する形でSFやファンタジーの物語を構成する事は難しいという。かすかにそれをやっているのが、共産党系知識人が好きな戦後民主主義肯定論だったり、司馬遼太郎の描く日露戦争だったりするのだが、それもやはり弱い。だから、結局『コードギアス』のような遠回りしかできないのだという指摘は、まさにそういうことかと腑に落ちた。この問題意識を超えて、どのような作品を紡いでいけるかが、次のステップということになるのだろう。

村上隆氏のインタビューも面白かった。村上氏の事は昔は余り好きではなかったのだが、『 芸術起業論 』を読んでからは、その思いが一変して、今は好きなアーティストの一人である。インタビューはかなり恣意的な意図を含んでいるのでわかりにくい部分もあるが、ようするにこういうことだろう。

具現化しようとすると陳腐なものに成り下がる。その陳腐なものを士郎正宗のようにくどくどやることで、陳腐じゃないようにしようと思えば思うほど陳腐なものになっていっても、それでもなお作品化しようとするラディカルさ、ガッツがあるのかないのかというところが作家であるかないかの分岐点だ。

黒瀬陽平氏の論文は、セカイ系のアニメを美術の文脈で論じている。聖地巡礼が流行していることをフックにして、コントラストの強い背景美術とその前にあるセル風の絵をつなぐものについて、そこにセカイ系的な想像力を読み取っているようだ。たしかにそのアイデアは面白いが、展開に若干無理がある気もする。

黒瀬氏は、新海誠氏の作品以降、トレース技術がアニメ業界で多く使われるようになったとし、そこから聖地巡礼、セカイ系への想像力を導いている。しかし、トレースの技術は今に始まったものではないし、PCによるトレースが背景美術のクオリティを劇的に進化させたわけでもないだろう。そもそも、本物らしさをもったハイコントラストな背景を描く事に特別な技術が必要なわけではない(トレースしなくても、トレースのような絵を描くことは難しくない)。

また、背景画が虚構と現実をつないでいるというのも悪くないが、この関係性はディズニーの最も古い作品からしてそうだった。ポパイやベティでも実写を加工してそのまま背景にしているものがあるし、現実の背景の固有性を必ずしも消去しきった作品ばかりがあったわけではない。つまり、古くからあったネタを、トレース技術の発達から聖地巡礼という流れに組み替え、ゼロ年代的な想像力に焼き直している点が気になったのだ。早い話がインターネットの登場が視聴者の領域を拡大させた、というだけの話である。

斉藤環氏の論文は、初音ミクをヴァーチャル・アイドルの文脈で語っていて、ちょっとだけ気になった。ミクってどう考えても、2ちゃんのモナーじゃないだろうか? ニコニコ動画以外の文化圏に属さず、自分達の文化圏から生まれた共通言語としてのキャラクター、それが初音ミクなのだと思う。Perfumeとの相似性で語る人があまりにも多いが、やはりそれは少し的外れではないだろうか。2ちゃんのモナー同様に、コミュニケーションの回路を開く事でキャラクターが浮かび上がっており、みんなで育てるという意味ではポストペット2.0的発想に近いのかもしれない。そして、やる夫も近いところを走っているのだろう。

宇野常寛氏の論文は、先ほど『 ゼロ年代の想像力 』から前進していないと書いたが、内容はなかなか面白い。彼の文章には、今っぽいバズワードが華麗に散りばめられていて、時代の空気みたいなものを感じさせる妙技が冴えている。大塚英志は『キャラクター小説の作り方』で、最初に頭に浮かんだキーワードをカードに書き、それを並べ替えならが物語を作っていくことを提唱していたが、まさにそのような手つきで批評文が紡がれているのだ。また、佐々木敦『 ニッポンの思想 』や同人誌『 Final Critical Ride 』の感想でも書いたが、佐々木氏と宇野氏の批評のスタンスはかなり似ているように思う。強引なキーワードで接続してみると、宇野氏の「ハイブリッド」と佐々木氏の「ポスト・ロック」が、そっくりな言葉に聞こえてくるから不思議だ。

座談会もバラエティに富んで面白かった。

特に政治の座談会では、宮崎哲弥氏の話が一番納得できた感じ。「実体」的なモノを求めていくと、いつのまにか「象徴」的な記号により強く絡め取られてしまうという現在の政治への認識や、『ロスジェネ』が『エロスジェネ』をやってしまって、ガッカリ感が加速したことへの認識など、同意できることが多かったからだ。その一方で、東氏たちは、政治を語りながら、やや具体性を欠いており、実際の政治にコミットしたいわけでもないことが判明。ようするに新たな文壇をつくりたいのだという。…なるほど。

ゼロ年代後半は、時代と添い寝したような批評めいた本をいろいろ読んでしまった。それでは何となくまずいな…とようやく感じ始めたので、この本をまとめ的に消費して、2010年代以降は普通の本を読もうと思っていたら、コミケで買った『ゼロ年代のすべて』が結構面白そうなオーラを漂わせている。東氏と宮台氏の対談はかなりあつそうだ。これを読んで卒業という事にするかな(無理っぽいがw)。

Posted by Syun Osawa at 00:58