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2018年3月12日

僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って

高村友也/2015年/同文舘出版/四六

僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って最近の僕は2つの気持ちに引き裂かれている。

1つは40歳を越えた独身の男女が一人で行きながらも集えるようなコミュニティの創出。もう1つは2016年12月に突如芽生えた「結婚したい」という思い。この2つはリアルな生活の場所ではまったく別のベクトルを持っている。

今回読んだ本はその2つのベクトルのうち、これまで僕が持ち続けていた1つめの気持ちから読んだ本である。著者は大学を卒業した後も文筆などでわずかな収入を得ながら、雑木林の中に建てた小さな小屋で暮らしている。僕はこういう人に強烈に惹かれる部分がある。自分もそんな生活がしてみたいとうい思いがどこかにあるのだ。

ただ、この著者に手放しに惹かれたかというとそうでもなかった。というのも彼は東大を卒業した後に大学院まで進み、ホームページのプロフィールを見るといくつかの資格も取得している。ブログやtwitterも活発に更新し、本も数冊出版している。

小屋で一人暮らしているという事実を除けば、肩書はフリーライターである。そしてフリーライターとしてのキャリアは申し分ない。だから何もかもを捨てて生きているというタイプの一人暮らしではないし、そのことは著者も認めている。

これは以前読んだ青木雄二の短編集『 さすらい 』に収録されていたドヤ街に生きる2人の男性の漫画を連想させた。この漫画では大卒で漫画化を目指す青年と人生終盤の中年の交流を描いている。二人はともに明日をも知れぬ日雇の仕事をしているものの、青年はいつでも社会に戻ることができる。つまり青年にとってはドヤ街がモラトリアムの場所として機能している一方で、中年にとってはそこはモラトリアムではなくそこしかない唯一の居場所なのだ。

では著者はどうなのか? そんなことを思った。一方で彼は本の中でずっと「死」について書いていて、これに関しては僕はよくわからないままだった。というのも僕自身がそれほど死というものに向き合って生きていなかったからだ。事実、自分で死を選ぶ人は少なくないし、その理由も千差万別だ。だから彼がどんな思いでこの生活をしているのかというところに霧がかかり、僕の思いとの間に少し距離を感じたのだと思う。

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