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2017年12月8日

アイドル現場に通いつめるDDはアイドルを語りえるか

どうでもいいトピックス。

これは音楽評論家とかその手の人たちにも通じる話かもしれない。廣野由美子『 批評理論入門 』あたりを読むと文芸評論のような特定の分野でも様々な批評のアプローチがあるし、音楽などのそこからさらにぼやけた分野になるとアプローチの抽象度がさらに高まる。

「アイドルとは何か?」とか考え出すとこれははっきり言ってわからなくなるが、アイドルの音楽とか現場でのパフォーマンスとかグラビアアイドルのおっぱいの大きさとか、そうした特定の要素だけを抜き出して過去に使われた批評の方法によって語ることは可能なのかもしれない。しかしそれはあくまで特定の要素を切り出した上での割り切った批評である。

アイドルを応援するという行為には性愛の要素が含まれており、それを突き放したスタンスで彼女たちのパフォーマンスを眺めてたとして、そこで語られる内容が果たしてアイドルを語るということになるのだろうか? という疑問は残る。

誰か一人のアイドルを好きになり、その子が引退するまでの10年の間、ずっとその子を一筋に応援し続けたというのであればその葛藤の記録はアイドルを語るのに十分かもしれない。なぜなら、一人のアイドルはライブ会場だけでなくテレビやラジオ、インターネットでのチャットなど様々な媒体を通じて活動しており、それを追いかけるファンも結果として様々なメディアを横断することになる。

しかし僕のようにライブ会場にばかり足を運んでアイドルのパフォーマンスを見て、その後で気に入ったグループの物販で女の子と握手したりチェキを撮ったりするという行為を繰り返したとしても、それはアイドルのある一断面を見ているに過ぎない。

そしてそれは僕のようにただ現場に通ってたくさんのアイドルを見ているということのみを手掛かりにアイドルを語る他のアイドルライターにも言えることかもしれない。もっともヲタの生態については語りえるかもしれないが。

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