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2011年04月30日

バンド・デシネもメッタ斬り

2011年2月17日/15:00−17:00/東京堂書店

このイベントの日は先約があったのだが、午前中にドタキャンの連絡があり、「それなら…」ということで参加することにした。バンド・デシネ(以降、BD)の作品を出版している3社の合同イベントだったらしく、僕の知らない作品が数多く紹介されていた。特に配布されたガイドペーパーはかなりの情報量だった。『ユーロマンガ』をきっかけにして、今後BD作品を読んで行こうと思っている僕にはかなりありがたい。

登壇されている方々の話を聞いていて、なぜ僕がBD作品に心惹かれるかを考えていた。まだほとんど作品を読んでいないので根拠は何もないのだが、BD作品には一過性のブームのようなものが感じられない。作品論の社会学化が流行り、すべての作品がマッピングされて語られるような昨今の日本で、それを拒否するかのような中心点のなさが、このBDの世界にはあるように思える。たぶんそういうとこりに惹かれているのだと思う。

ところで、最近、書店の漫画コーナーで海外の漫画がよく見かける。

これまでも海外の漫画は小学館プロダクションなどから細々と出版され続けていたが、途中で出版打ち切りになるケースも少なくなかった。それが数年前に飛鳥新社から『ユーロマンガ』という季刊雑誌の形式をとったムック型の海外漫画が発売されたあたりから、少し風向きが変わってきたようだ。『ユーロマンガ』が出た頃にメビウスが来日して 明治大学などでシンポジウム をやった。その時期にメビウスの漫画も出た。

これらの流れはフランスのBDからの流れで、それとは別に「ウォッチメン」や「バットマン・ダークナイト」などのアメコミ作品もヒットしたらしい。欧米それぞれの作品がある一部の層に刺激を与え、小さな読者層が形成されているようだ。

とはいえ、日本のコミック作品のような何冊にも続いていく連載ものは、「X-Men」のように日本だけ出版打ち切りの可能性というのも秘めている。例えば、『ユーロマンガ』で連載されている「ブラックサッド」などは、早川書房からすでに2冊出版されており、続刊が出ておらず、その続刊部分を『ユーロマンガ』で引き継ぐ格好になっている。他にもエンキ・ビラルの『 モンスターの眠り 』の続刊が出ていなかったり、有名な作品であっても続けて売っていくのは難しいようだ。

そういう事情もあってか、今は1冊読み切り型の作品が主流のようだ。個々の作品の単価は2,000円〜4,000円と結構高い。僕のような貧乏人にとってはかなり厳しいが、それでも買いたいと思わせる作品が多く、僕もこの流れには何とかついていきたいと思う。とりあえず、『ユーロマンガ』だけは終わらずに続いてくれることを祈りたい。

Posted by Syun Osawa at 19:25

2011年04月27日

モネとジヴェルニーの画家たち

2010年12月7日−2011年2月17日/Bunkamuraザ・ミュージアム

モネとジヴェルニーの画家たちチケットショップで安く買い込んだチケットの1枚がこれ。いろいろなチケットと合わせて買ったので、その存在を忘れてしまっており、気づいたらあと展示期間があと1日という状況になっていた。捨てるのももったいないので、会社を定時で帰宅して行くことにした。

東京写真美術館へ 「3Dヴィジョンズ ― 新たな表現を求めて」展 を見に行ったときは、20時まで開いていたのでよかったのだが、ここは19時までしかやっていない(最低でもあと1時間伸ばすべきではないのか)。そのため、わずか30分くらいでザッと見るだけになってしまったのは少し心残りである。

で、展示内容の話。

この展覧会はフランスのジヴェルニーに集った印象派の画家達の絵を集めたもので、目玉はもちろんクロード・モネの連作《睡蓮》だろう。僕がもともと知っていた作品もそれくらいしかない。残念なことに、《睡蓮》シリーズは何枚もあって、僕が今回見たものがどのくらいの価値のある絵なのかもわからない。以前どこかの美術展で《睡蓮》は見たはずなのだが、それと今回の《睡蓮》が同じなのか、それとも違うのか、それすら僕にはわからなかった。

そもそも印象派の絵は、あの妙なキラキラさに違和感を感じてしまって、僕はちょっと苦手なのだ。あのまばゆい光は単なる技法によるものだと思っていたし、そこにどこかうそ臭さを感じていたりもしたからだ。展示されていた絵の多くは、モネが住んでいたジヴェルニーという場所で描かれたらしく、写真パネルが何枚かあった。その写真を見ると、植物の手入れが行き届いていて、とても美しい。そこで僕の考えは少しだけ修正された。

印象派のあのキラキラした表現は、ジヴェルニーの空気感を上手く描き出している。もちろん他の画家達は、モネに引きずられる形で印象派の技法を選択したのだとは思うが、例えそうであっても、あの技法しかないと思わせるような美しい自然がそこにはあったのだ。

19世紀に自然主義の影響を受けて大量の風景画が描かれるようになり、その後、写実性の追求を超えて印象派の絵画が生まれていく過程に、僕は作家の恣意的な力学だけを汲み取っていた。でもそれは、描かれる対象のほうをあまり深く考えていなかったからだ。ジヴェルニーの美しさには、作家に光を表現させたいという意欲を掻き立てるような雰囲気があり、それが作家達の技法の追求との間で運よく化学変化を起こしたのだろう。その結果が今回の絵画展なのだということに、ポストカードを買おうかどうか迷っている売店の前で気づかされた。

Posted by Syun Osawa at 20:49

2011年04月24日

不合理だからすべてがうまくいく

ダン・アリエリー/訳:櫻井祐子/2010年/早川書房/四六

不合理だからすべてがうまくいくマッテオ・モッテルリーニ『 世界は感情で動く 』に続いて、行動経済学の本を読んだ。行動経済学は無感情で効率的に動く人間を前提とした古典的な経済学とは少し異なっていて、人間が実際にどう行動するかという経験則を学問の中に取り込んでいる。

この時点でかなりの胡散臭さはあるわけだが、数年前にオンライン証券に口座を作って以来、人の感情というのは無視できないばかりか、かなり重要な位置を占めていると考えるようになった。というのも、市場の株価は、日々のニュースの影響を受けて大きく上下動を繰り返すからだ。

世界は感情で動く 』では、人は感情まかせで行動するほうがストレス負荷がかからないために、多くの人が同じような行動をしてしまうと書かれていた。これは非常に納得できる話だ。本書でも、人がいかに感情に基づいて行動しているかが実験例を用いて説明されていた。

例えば、ホットケーキミックスに卵は含まれていないが、あれは卵入りの粉と水を混ぜるよりも、粉と水に卵を加えて混ぜるほうが売上が伸びるためらしい。効率性を考えれば、卵が入っていたほうが便利なのに、卵を加えるという1工程が加わっていたほうが、料理を作っているという充実感を抱きやすいのだそうだ。この場合では、作業工程が増えるほうがストレス負荷が少ないということになる。

ほかにも、バーチャルデートのアーキテクチャの話やユダヤ教の法律の話など、サンデルのコミュニタリアン的な話と感情との結びつきを考えさせられるような内容もあった。リベラリズムとコミュニタリアニズムは、行動経済学とも高い親和性があるように思うので、これらの話もなかなか面白かった。

ただ、なかには、ゴキブリが一匹で迷路に入れた場合と、たくさん入れた場合では、たくさんで入れた場合のほうが時間がかかるという例も紹介されていて、これなどはかなり胡散くさい。著者は、ゴキブリをたくさん入れた場合のほうが、お互いの視線を気にして正確な行動を取れないのではないかと推測していたが、はたしてゴキブリにそんな自意識が備わっているのだろうか。

自意識といえば、本書はわざと著者自身の自意識(幼い頃の体験談やコンプレックスなど)を吐き出す形で書かれている。その部分が強すぎて、考察の際に、多角的な視点で考える契機を失っているのではないかとさえ思う。もちろん、行動経済学においてはこうした書き方も一つの特色なのかもしれない。ともかく今回は、マッテオ・モッテルリーニ『 世界は感情で動く 』に続いて外国人の著者の本を読んだので、Amazonで良書と評価の高い友野典男『行動経済学 経済は「感情」で動いている』あたりを読んでみようかなと思う。

Posted by Syun Osawa at 10:23

2011年04月21日

歴史を描く ― 松園・古径・靫彦・青邨

2011年1月8日−2月17日/山種美術館

歴史を描く ― 松園・古径・靫彦・青邨最近、山種美術館に行く頻度が高い気がする。それはここの企画展が僕の琴線に触れているから、という理由ではなく、チケットショップで安く売られていることが多いためで、必然的に行く頻度が高くなってしまうのだ。

そんな消費社会の悲しい現実が功を奏したのか、昔よりもかなり日本画が好きになったように思う。並木誠士『 図解雑学 美術でたどる日本の歴史 』などの入門書をちょくちょく読み重ねてきたことも大きい。なかでも、歴史を描いた“歴史画”は、素人の僕にもわかりやすいコンテクストを提供してくれるので気に入っている。

歴史画は社会の教科書に登場する機会も多く、そこに描かれた世界と、実際の日本の歴史が重ね合わされている。これは当時は写真がないために、ビジュアルの情報を得るためには、画家の想像力に頼るしかないからである。そして、この想像力を形にするための技法が日本画であり、その技法はそれぞれの時代の画家達によって何度も更新され続けてきた。よって、日本人が日本のイメージを思い浮かべるとき、画家たちの想像力によって築かれてきた日本画の更新過程そのものが、そのイメージの中心にくることは避けられない。そのあたりが、僕が歴史画に興味を抱く点である。

今回展示されていた絵は、明治から昭和初期にかけて描かれた歴史画だった。すでに写真の技術が存在する時代に描かれた絵である。昭和初期に活躍した上村松園の絵もあったし、内容的にもバラエティに富んでいて飽きなかったのだが、全体を俯瞰してみると、クラシック音楽を現代の音楽家たちが再現しているような表現に感じられた。技術は高度で洗練されているのだが、江戸後期まで続いたイメージの上塗り(そしてこれ自体が日本を形作ってきた)といったものが見当たらないのだ。

歴史の教科書で、戦争や偉人たちの肖像画など、歴史の資料として絵画が使われなくなるのもちょうど明治の頃からである。日本画の役回りが写真の登場と近代化によって変わってしまったのかもしれない。それが、画家や大衆の絵画に対する思いにどの程度影響を与えていたのかはわからないが、ここから先の歴史画は、漫画でいえば「近代麻雀」くらいのサブジャンルに一気に縮小されていったのだろう。それは大文字の歴史と歴史画とが、完全に別のレイヤーに分離してしまったことを意味している。

よって、写真の登場以降に描かれた歴史画をより深く見ていくためには、たんなる歴史と絵画の重ね合わせというだけでなく、より高度なコンテストの読み込みが必要になるはずで、その読み込みの技術が高度になればなるほどサブジャンル化が加速していき、逆に歴史との距離は遠ざかっていくという二律背反の状況になっていくのだろう。こうした困難さを引き受けつつ歴史画を見る…なんてことは僕にはできそうもないので、歴史画を楽しむのは明治初期のものまでに留めて、あとは普通に日本画を楽しべきかもしれない。

Posted by Syun Osawa at 00:36

2011年04月19日

Glad 1st Anniversary All Sunday Jack!!

2011年2月20日/18:30−21:40/渋谷Glad

Glad 1st Anniversary All Sunday Jack!!昨年の クリスマス・ライブ に続いて、AiraとSaoriの競演。Terukadoプロデュースでありながら、これまであまり接点のなかった二人が最近よく接点を持っている。悪くとれば、いよいよデートピア商法が行き詰って、合同でやらないとイベントが回せなくなったということかもしれない。良くとれば、ある程度キャリアを積んで、キャラクターや方向性が定まってきた二人が競演することで、新しい化学変化を起こそうしたいという意図を汲み取れるかもしれない。

ゼロ年代は、音楽が二次創作、三次創作が、オリジナルと同様に受け入れられることが不自然ではなくなった時代だったと思うし、特にダンスミュージックはそれが顕著だったとも思う。そして、そこにあるコンテクストは、新しい何かを捜し求めるのではなくではなく、今あるものを取り入れて拡張(embrace and extend)することだった。2chなどで「デートピア商法」と呼ばれていたものは、まさにこれを正確に体現していたと思うし、僕を含め彼女らのフォロワーはそれを楽しんでいたと思う。そうした意味で、今回のライブは、デートピアが作り出した音楽の一つの到達点を示していたように思う。

この点についてちょっとだけ深堀りしてみる。

アイドルとクラブミュージックがそれぞれ別の島宇宙だった90年代を経て、それらがすべて混ぜっ返されたのがゼロ年代。個々の音楽を精細に聴き込めばより細分化(さらなる島宇宙化)されているとも言えるし、サクッと俯瞰すればそれらは全部同じボーダレスジャンルの内側にあるとも言えるような状況になっていた。こうした状況では、アイドルとクラブミュージックの間を横断することに快楽を得るようなサブカル的消費は困難となる。そして、AiraやSaoriは、まさにこの困難さの只中で、それでもサブカル的消費をしたい人に向けて音楽を送り続けていたように思う。

Perfumeがブレイクした当時は、エレクトロとアイドルのハイブリッドをサブカル的に消費する市場が充分にあった。しかしその市場もかなり小さくなってきている。この市場縮小の流れがこの先どこかで下げ止まるのか、それとも一過性のブームとして完全に消えてなくなるのかはわからない。普通に考えれば、市場性なしとして、ここで打ち止めにするのが順当だろう。もしくは広い視野を持って、市場開拓のために世界へ出て行くしかない。

こう書いてしまうと身も蓋もなくて悲しいが、それでもあえて僕が希望を見つけるとすれば、上で述べたような差異ゲームを超えたところで楽しんでいる人が、AiraやSaoriのファンには多いように思えることだ。昨年の クリスマス・ライブ で書いた感想を読み返してみると、「今、アイラを応援しているファンの多くは、古参ヲタを除けば単純に盛り上がりたいだけの層なのではないか。」と書いていた。

この盛り上がりをどう考えるかでまたいろいろ考え方が分かれそうな気もしないではないが、エレクトロとアイドルのハイブリッドは、サブカル的なネタ消費の期間を終えて、しっかりとダンスミュージックの一つとして受け入れられ、そこに新しい市場が生まれているという考え方もできるだろう。それがPerfumeであり、その拡張者がデートピアなんだと勝手に捉えれば、まだもうちょっと延命できるところもあるのかもしれない。

個人的にはWIREとかELECTRAGLIDEみたいなイベントを、アイドルだけでキッチリやっていく(そのイベントのトリはレディ・ガガでいい)。そんなコンテクストが築かれていくことを望むのだが、これはサブカル的ヲタの自意識だけではどうにもならない規模である。

うーん…もはや何の感想なのかもよくわからんな、これw

Posted by Syun Osawa at 23:06

2011年04月18日

これからの「正義」の話をしよう

マイケル・サンデル/訳:鬼澤忍/2010年/早川書房/A5

これからの「正義」の話をしよう ― いまを生き延びるための哲学この本は、「正しさ」の多様化によって価値判断がますます難しくなる現代において、自分の考え方がどのような主張に近いのかを知るのにとても有効だ。サンデルは、本の前半で様々な例を挙げていて、「あなたなら、このときどうしますか?」という問いを読者に投げかけてくる。そして、これを考えることによって、自分の考え方がリバタリアニズムに近いのか、リベラリズムなのかといったことがわかってくるのだ。

僕の考え方は恐らくサンデル本人の考え方に近いように思った。リベラリズムに近いコミュタリアニズムといった感じ。普段から新しいコミュニティの必要性を感じていたし、功利主義では補いきれない価値が必ずあるはずだとも感じていたので、サンデルが最後に宗教をあえて引っ張ってきたことにも納得したのだ。

とはいえ、アメリカと日本ではコミュニティの考え方も、宗教の取り扱いも大きく違うはずだ。さらに、特定の宗教に肩入れしていない僕としては、宗教が提供する倫理を超えた、もっと現代のニーズにマッチしたような普遍性を持った倫理みたいなものがあるべきだとも考えている。そこで政治思想みたいなものの中にそういうものを見つけようとするのだが、こちらも冷戦以降、複雑化していて見えにくい。宗教団体の創価学会と政治団体の共産党がともに支持層を広げられないことが、この事実をよく表しているようにも思う。

特に日本では、右翼と左翼の論争といったものが、サブカル的な意味しか持たなくなってきており、その空洞に入り込んだネトウヨ的な思想が、2ちゃんねるやニコ生などで拡散されている状況は見過ごせない。彼らがコミュニティの中心に据えようとしている偏狭なナショナリズムが、「日本」をさらに見えにくいものにしているようにも思うからだ。

ネトウヨなどのように特定の何かを徹底的に叩くことは、それ自体が見えにくくなった日本の価値基準を明確にするための方法であり、敵との相対化によって得られた場所にコミュニティを意識するための方法でもある。僕はこの特定のマイノリティを徹底的に叩くという方法には反対の立場だが、彼らが求めているコミュニティへの帰属意識にはコミュニタリアニズムの重要な要素が入っているようにも思う。

このあたりは、多様化、希薄化し続けるコミュニティについてもう少し勉強しないことには何とも言いようがない。ただ、ネットワークが前提の社会においては、同質の価値を共有し合うもの同士が感じるコミュニティへの帰属意識は、距離の概念を越えており、居住地域によって縛られるものではないと考えている。この点で、インターネットの登場は大きなパラダイムシフトが起きているはずだ。僕はこのあたりのコミュニティの問題が最近気になっている。次はジェラード・デランティの『コミュニティ』あたりを読んでみたい。

Posted by Syun Osawa at 22:41

2011年04月17日

3Dヴィジョンズ ― 新たな表現を求めて

2010年12月21日−2011年2月13日/東京都写真美術館

3D ヴィジョンズ会社帰りに自転車で恵比寿へ。アフターファイブに美術館とか、ちょっとオシャレ風で気持ち悪いのだが、会社からも近いし、夜に行くと夜専用のスタンプカードをくれたりするので、しばらく通ってみるのも悪くないかも…。

とはいえ、僕は写真をアートとして鑑賞する感性がほとんどないので、単純な写真展だとやや辛い。今回は、3D映像の歴史を扱った作品展だったこともあり、以前行った 公開講座「3D立体映画の仕組みと視覚特性」 の知識を踏まえて見に行くことにした。

展示の内容は前半が3Dの歴史、後半が3Dアートの現在という感じ。前半のほうは、わりといろいろなところで見ているため、それほど目新しさは感じず。よーするに、3Dの技術というのはかなり古くからあって、人間の左右の眼の視差を利用するという点においては、昔も今もほとんど変わっていない。

光の縦波と横波を交互に操作する偏光板を用いた3Dメガネにしたって今の技術というほど革新的なものでもないので、結局は3D映像を扱ったこの手の企画というのは、新しいようでこれといって新しさが出ないのだ。

では、なぜ昨今、3Dのブームが起こったのか?

それは、キャメロンの『アバター』が素晴らしかったからに他ならない。あの映画が革新的だったのは、3Dの技術ではなく、3Dの演出の技術だったのだと僕は思っている。今回の展示でも、その3Dの見せ方にこだわった作品がいくつか紹介されていて、そのアプローチの仕方がとてもよかった。

繰り返しになるが、視差を利用した3Dにこだわれば、今の最新技術を使ったとしても立体の映像が昔よりもより立体に見えるということはない。だから、これからの3Dにまだ余地があるとすれば、どのように3Dっぽさを演出するかというところにしかないように思う。でも、巷では3DSとかブームになっているし、3Dテレビなども含めて、ブームは結構続いているから、何とも不思議な感じだ。

Posted by Syun Osawa at 09:26