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2010年06月29日

公開講座「3D立体映画の仕組みと視覚特性」

2010年6月19日/13:30−15:30/東京工芸大学

アバター 』で話題になった3D立体映画の仕組みを解説するという、非常に今っぽくて僕得な公開講座だった。講師の名手久貴氏の話によると、たまたまこの時期になったらしい。

3D立体映像の歴史は古く、1839年にホイート・ストーンという人が立体写真を開発して以来、その技術はすぐに映像にも応用されることになった。その原理はいたってシンプルで、左目と右目の見ている映像を少しだけずらし、そのずれによって立体感を出している。

この原理は今でも採用され続けている。ステレオスコープ、アナグリフ(青と赤のフィルム)などは有名で、特にアナグリフは僕が小学生の頃にもよく飛び出すマンガなどが付録で付いていた記憶がある。ディズニーランドで上映されている映画も、この技術を踏襲していて、2つのプロジェクターを利用した偏光板(パッシブ式)が採用されているそうな。

実用レベルで一番有名なのは、液晶シャッター式(アクティブ式)で、こちらは1つのプロジェクターで交互に左目用と右目用の絵を切り替えて出している。秒間60コマだとしたら、30コマずつ切り替えているのだ。そして、それを見るメガネのほうにエミッターという装置で信号を飛ばして、メガネの方でも制御しているらしい。

ここまででも、何だか科学的な感じがするが、これらはすべてつくば万博の頃までにあった技術だ。今は、RealD方式とか分光方式(ドルビー式)などいろいろ開発されており、エミッターを必要としない装置も開発されている。

で、世界を席巻した『 アバター 』はどういう技術が採用されていたかというと、Xpand式というもので、実は液晶シャッター式の改良版だったそうな(つまり、エミッターが必要)。民生用で続々と登場しているSonyやPanasonicの3Dテレビもこれらしい。

よーするに、古臭い技術を改良しただけだったのだ!

前田真宏氏のアップルストアのイベント で民生用の3Dテレビを初めてみて「すげー!」と思ったり、東工大のイベント で黒沢清氏が「古臭い技術」と言っているのを聞いて、「黒沢はわかってねーな…」と思っていたけど、彼の言うとおり古臭いものを再び出してきただけなのである。

僕はメディアアートのコンテクストとして、3D立体映像の必要性を感じていたので、この流れは必然なのかと思っているわけだが、今の技術のままでは、奥行きなどに限界がある(視角1度、限界は2度くらい)。さらに個人差もある。DS 3Dのように、メガネを使わないタイプもいろいろ開発されているが、メガネを使ったものよりも技術がさらに難しく、結局はメガネタイプのものが一番安定しているらしい。

しかし、この状況だと、結局古臭い技術のままということになり、出口なしの感じになってしまう。これは「現場感から現実感へ!」みたいな、メディアアートのコンテクストを技術的に狭い世界へ封じ込めてしまうことにもなりかねず、立体感を推し進めるにはそれとは違った回路を早急に探さないとやばいような気がしてきた。例えば、シアター360 みたいなものにもっと夢を託すべきなのかもね。

Posted by Syun Osawa at 00:01

2010年06月27日

福田和也の「文章教室」

福田和也/2006年/講談社/四六

福田和也の「文章教室」文章のスキルが一向に向上しないため、書店などで見かけてすぐに目が留まってしまうのがこの手のハウツー本だったりする。これを読めば何とかなるかも…と思ってしまうのだな。でも大抵は当てが外れる。というのも、文章の書き方についての本は掃いて捨てるほど出ているが、そのうち本当に具体的な書き方を教えてくれるような本はほとんどないからだ。

そんな有象無象のハウツー本の中で、この本は一つだけ真理を僕に教えてくれた。それは「好きな作家の文章を書き写せ」というものだ。しかも手書きで。たしかにそうかもしれない。そういえば、『g2』の創刊記念シンポジウム で、石井光太氏も似たようなことを言ってたっけ。でもこの歳になってそれをやるのは、さすがに面倒臭いw 学生時代にやっておくんだったよ…。

書き方の話については、虚構の話もまずまず面白かった。文章を書くというのは、自分の脳内で作り上げた虚構を表現することなので、いかに嘘をつくかということだ。だから書く前提としてしっかりとした世界観を構築しないと、底の浅さがバレてしまう。それを回避するためには読む力は必要だし、何かを書く前には調べることも必要なのだという考え方には説得力がある。逆に言えば、ここをしっかり確立しればいいという前提があるために、似たような新書を濫造する著者を許すということになってしまうのかもしれないが。

福田氏は、本に書かれている文章とブログの文章に明確な区分けをしている。売られている文章は編集者の目をすり抜けてそれだけに価値のある文章になっているという。このあたりの認識は昔からあるが、出版業界の凋落によってあぶれた人だったり、文章の面白さだけで人気を勝ち得た一部のブロガーなどはやはりそれなりのはずで、そういう意味では彼のいう構図もかなり危うくなってきているなとは思う。これはいい傾向では決してなく、何というか、全体的にぐだぐだになっているといった印象だ。

Posted by Syun Osawa at 14:41

2010年06月19日

東京国立博物館

常設展示/9:30-17:00/東京国立博物館

東京に長いこと住んでいるのに、東京国立博物館に行ったのは初めてだと思う。以前、戦争画関連で「 戦争と表象/美術 20世紀以後 」というイベントに参加したことがあったが、あのときも脇の入り口から入ったので、中の展示物は一切見なかった。

今回初めて中の展示物を見て驚いた。僕の地元である京都国立博物館もなかなか凄いものが展示されていたが、東京はさらにヤバい。教科書で見た縄文時代の土器とか、その手のものが当たり前のようにガシガシ並んでいる。僕の中では東京国立近代美術館に初めて行ったときと同じくらいの衝撃だった。

ただ、衝撃が大きかった分だけ、悔しさも大きかった。美術史、仏教史、日本史などに疎いせいで、そこに展示されている作品(と呼んでいいのだろうか?)のコンテクストが上手く読み込めない。ちょうど、並木誠士『図解雑学 美術でたどる日本の歴史』なんかを読んでいる途中だったりするのだが、一歩遅かった。日本の美術史は仏教美術と密接に絡んでいて、そこを抑えないかぎりはどうしようもない。千手観音一つとっても、あの四方に伸びた多くの手に握られているもには決まりがあるし、寺の社殿の配置にも曼荼羅が影響している。それらのルールもおざなりにしか把握していないので、妙にもどかしいのだ。

横を見れば、50代の女性が何やらメモを取りながら、熱心に仏像を見つめていた。刀剣のコーナーでは70歳くらいの男性が、これまた真剣に刀を見つめている。きっと彼らにはそれらのコンテクストがわかるのだろう。いずれにせよ今の僕にはわからない。しかも、施設が広すぎるため全部を見て回ることはできず、本館、法隆寺宝物館、表慶館、ミュージアムシアターだけを回って帰った。東洋館や平成館はまた次回。

作品の良し悪しとは別のところで気になったのは、立体の優位性についてだった。日本画の線の細さも影響しているのだと思われるが、古い絵はかなり色があせてしまっている。期間限定展示の「六道絵」にしたって、目を凝らして見ないと、書かれている絵の細部を判別することは難しかった。その一方で、法隆寺宝物館に飾られている銅で作られた仏像は、飛鳥時代につくられたにもかかわらず、その形をはっきりと留めている。古いという意味では、教科書でも度々登場する縄文式土器が明瞭な輪郭を保っていることなどもわかりやすい例だろう。

「形あるものもいつかは滅びる…」というのは確かにその通りだが、平面しかない絵は、もっと早く滅びてしまうのだ。そして、その平面すらないデジタルデータなどはさらに早く滅びてしまうのだろう。古いものは博物館に残されるが、90年代後半くらいのデジタルアーカイブの多くが失われてしまう可能性も高い。当たり前の事かもしれないが、そんな作品の強度について、ちょっとだけ考えさせられた。

Posted by Syun Osawa at 02:21

2010年06月18日

鳩山由紀夫の政治を科学する

高橋洋一、竹内薫/2009年/インフォレスト/新書

鳩山由紀夫の政治を科学する版元は違うが、『 バカヤロー経済学 』の続編。サイエンスライターの竹内氏が聞き役となり、先生役の高橋氏が鳩山政権の政策の裏側にはたらいている力学を、わかりやすく解き明かしていくという内容だった。

去年、鳩山氏が首相に就任したとき、理系の元学者(しかもかなりのレベル!)が首相になったということで、ちょっとだけ期待していた。というのも、この本にも書かれている通り、鳩山氏が研究していたのはOR(オペレーションズリサーチ)というもので、困難な状況において目的や条件をはっきりさせ、ベストな解答を求めるための研究だったからだ。理念を突き通すことよりも最適化が求められる時代にあって、彼の政治戦略はかなりまともなものだと思えた。

今となっては鳩山氏のOR戦略は失敗に終わってしまったわけだが、社民党を沖縄問題共々離脱させるという裏の力学を働かせていたのだとすれば、ちょっと凄い。次の参院選で民主党が単独過半数をとれば、国民新党も社民党もいらないわけだから、その前段階として社民党を引き下がれないところまで追い込んだ…とも考えられる。そして、鳩山氏が自ら沖縄問題の責任をとる形で辞任したことで、沖縄問題は棚上げにする。そこまで考えてたといたとしたら…。実際に、民主党の支持率は回復してしまったわけで、これもOR戦略なのかも。

…つか、こんなこと考え出したらどんな事でも言えてしまうのではないか?w 本を読んでいて、自民党の基盤を叩いていくという話などは「なるほど!」と思うことも多かったが、その一方で陰謀論めいた怪しげなものも混じっていた気がする。その真偽は僕にはわからないから、とりあえず黙って頷くほかない。

たしかに裏読みはかなり楽しい。ついつい高橋氏の解説に全幅の信頼を置いてしまいそうになるのだが、この裏読み自体もある種のプロパガンダとして機能するはずなので、そのことにも気をつけねばとは思う。いや、それにしても科学を軸にした裏読みは楽しい。このシリーズは今後も続けて欲しい。

Posted by Syun Osawa at 01:19

2010年06月16日

公開講座「インタラクティブアート入門」

2010年5月29日/13:30−15:30/東京工芸大学

最近はいろいろな大学が無料の公開講座を開いていて、貧乏リーマンにはとてもありがたい。特に東京工芸大学はわりと近くにあり、よく利用させてもらっている。感謝。

今回の公開講座は、浅野耕平氏によるインタラクティブアートのお話だった。いくつかの作品を映像で紹介しながらの進行で、とてもわかりやすい。今は、デジタルを使ったアートコンテンツが爆発的に増えているので、その膨大な作品群を全部見通すことは素人の僕には難しい( white-screen.jp の作品ですら全部は追えていない)。だから、今回の浅野氏のように、「いくつかの作品を提示することで一つの文脈を形作っていく」タイプのキューレーター的な役割って今後どんどん必要になってくるように思う( 東京芸大のイベント も1作品ごとに、山村浩二氏の解説が入っていてわかりやすかった)。

話が逸れた。ともかく、インタラクティブアートというのは、「相互性という特性を利用した表現活動」のことを指すらしい。ちなみに、メディアアートは「先端技術を使った表現活動」という言葉で説明されていた。メディアアートに関する僕の考えは、以前書いた とおり。

ようするに、メディアアートとインタラクティブアートは今、極めて近い位置にある。なぜなら、そのいずれもが能動的な体験や関係性が表現の主体だと考えているからで、率直に書いてしまえば、コミュニケーションそれ自体がアートの対象となっているのだ。

カオスラウンジなどの動きを見ていても、この流れは素人の僕にもわかりやすいコンテクストだとは思う。ただ、一つ気になるのは、この「コミュニケーション」という言葉がかなりバズワード化し、安易に用いられていることだ。もしも人と人の繋がりの中で起こる軋轢を軽減させることに、これらのアートの主題を見つけるのだとしたら、何だか物足りない気もする。

メディア芸術祭のシンポジウム で、岡崎乾二郎氏は「メディアアートとは「メディアによって如何にメディアを批判するか?」という問いを、作品内部に取り込んだもの」であると話されていた。だとするならば、インタラクティブアートは、この「コミュニケーション」に対する批判的な言説もメタコンテクストとして用意しておく必要があるのではないか? そんなことを思った。

Posted by Syun Osawa at 01:26

2010年06月12日

Aira Mitsukiインストア・イベント

2010年6月5日/18:45−19:10/ISHiMARU SOFT2 7F

今回は妙にアッサリした印象。ちょうど1ヶ月前の LIQUIDROOMでのワンマン・ライヴ が、Sawagiとコラボしてかなり熱かったせいかも。ダンサーの二人がついてるだけでも華やかなはずなのに、ちょっと物足りなく感じるから不思議だねぇ。

今回リリースされたミニアルバム『6 FORCE』は、2枚組みになっていて、1枚目はTerukado、2枚目はSawagiがプロデュースをしている。今のところ、グッとくる作品はないんだけど、LIQUIDROOMでのワンマン の方向性はライブで上がりたい派としては悪くない感じだったので、その印象と合わせて考えればSawagiのアプローチは嫌いじゃない。ただ、2chあたりを見るとかなり評判が悪いようだ。

悪評の理由はいくつか考えられる。あきらかにPerfume経由のエレクトロから逸脱しているし、Sawagiの良さ、Airaの良さが上手く融合されている感じもしない。好きなものを組み合わせてみたら、何も起きなかった…って話なのかもしれない。それでも彼らのアプローチを少し擁護したい気持ちなのは、僕の中で密かにブームになってる「虚構の現場感」に向けて想像力が開かれているからだ。もうちょっと何かやれば、ギアがギュッと噛み合って、いいドライブ感が生まれるかもしれない。そんなキモヲタならではの身勝手な期待感は残っている。

個人的に物足りなさがあるとすれば、アイドルという枠を超えてしまったためか、メロディへのアプローチが弱くなってしまったことだ。前にもブログで書いたことだが、キャッチーなメロディを外して売れたアイドル歌謡曲は多分存在しない(はず)。演出は刺身のつまみたいなものであって、そこにはサブカル的な志向性が出てくるだろう。しかし、それを超えた場所に、人の心を捉える強いメロディがある…という中二病風の夢を抱いてしまっている僕としては、その点についてはもう少し強度がほしかったかなと。そんな感じ。

Posted by Syun Osawa at 00:55

2010年06月09日

Saori@destiny 『WORLD WILD 2010』リリースパーティー

2010年5月30日/18:00−19:40/SHIBUYA DESEO

良かった! 2月に行った 中目黒solfaのイベント よりも場所が広くなっていて、ライブ空間的にも申し分なし(前回は狭いところに押し込められて悲惨な状態だったので…)。音もいい感じだった。

今回もキーボードの二人が参加しており、ライブに対する意識が向上している。アイドルイベントとはいえ、カラオケ音源&単独ではどうしてもライブが味気ないものになりやすいので、楽器隊をわかりやすい形で導入してくれたことはありがたい。ただ、残念なことに、今回でキーボードの一人の方が辞めるらしく、この三人のパッケージがわずか数ヶ月にして崩れてしまうそうな。残念。

そんなちょっと残念な三人が織り成す今回の2ndアルバム『WORLD WILD 2010』。これがまた凄くいいのだ。最初に行ったインストア では、その良さがちょっとよくわかってない感じだったし、次に行ったインストアでは、「ちょっとコンテクストを外しているんじゃないか?」的な違和感も示している。これは ももいろクローバーのパフォーマンス を見て、今はAKB48的なものを如何にして受け入れて乗り越えるかというところに力点があるのだと考えたためだ。実際、先日NHKで放送された『MJ』というアイドル大集合の番組では、ももいろクローバーが強いパフォーマンスを見せ高い評価を得ている。

Saori@destinyの場合は、Perfumeに乗っかったもんだから、その得体の知れなさからアルバムの音にその名残を残していて、それゆえにAKB48的な王道のアイドル路線とは違う世界を突き進んでいる。今回のアルバムでは、単純なエレクトロ路線に線を引き、「EZ DO DANCE」のカバーに代表されるハードコア路線を前面に押し出した。さらに、チープなサウンドを貪欲に取り入れつつも、それらを少しだけ脱臼したところに落としどころを見つけていて(たとえばラストのRemixなど)、それゆえにこのアルバムは不思議なオーラを放っている(彼女の詩の冷めた視線も大いに関係しているだろう)。個別のインストアではよくわからなかったが、アルバムを通して聴くとその感じが明快につかめた気がした。

今回のライブは、そうしたアルバムの良さが第一にあったとはいえ、AKB48のコンテクストからは遠く離れた(それこそ並行世界とでも言えるような距離…)アイドルの現場において、Saori本人が「息がつまりそうになった」と言うくらい強いパフォーマンスを見せたことも良かった点だと思う。この強いパフォーマンスはもたらす現場感という部分だけを見れば、AKB48やももクロにも通呈するコンテクストだろう。

ゼロ年代の中頃、どこかのヒップホップのミュージシャンが、クラブ文化における現場の不在を嘆いていたが、AKB48はドンキホーテの上という最もチープな場所にその現場を築いてみせた。ももクロが見せる生歌&生ダンスのパフォーマンスも、Saoriのシンセ導入による人力テクノ風の演出も、「虚構の現場」を築くという想像力に溢れている。

すべてが相対化された今、最先端の音楽などどこにもありはしないのだから、今この場所を基点にして膨らますしかない。だから近くにある音楽はどんどん取り込んでいけばいい。そう開き直ったあたりが、テン年代のアイドル文化におけるスタートラインなのかな…とか書いてたら、かなり頭悪そうなので、このへんで書くのをやめておこうw 我ながらキモ過ぎる文だった(毎度の事か)。

ともかく、『bounce』で出嶌孝次氏が書いていたように、「 I can't 」と「 グロテスク 」が神曲であることは間違いない。たぶん。

Posted by Syun Osawa at 00:05

2010年06月05日

東大五月祭 KOMAMO'10

2010年5月29−30日/10:00−17:50/東京大学本郷キャンパス

東大五月祭 KOMAMO'10好きな人がいろいろ出ていて、本当は2日とも行きたかったのだが、公開講座などがあったので、CalmのDJだけ観に行くことに(本当はやけのはら+ドリアンも見たかったのだが…)。

東大の赤門を通って模擬店を抜けると、広場の隅っこのほうで地味に踊ってる集団があって、そこでCalmがDJをやっていた。Calmは『Silver Moon』だけ聴いている。このアルバムはアンビエントとかダウンビートっぽい方向性を持っていて、僕の好きな音が多く混じっていた。だから、この方向を継承したDJが聴けるのかなと密かな期待を寄せていたのである。

実際に鳴らされていた音は綺麗めのハウスで、どちらかというとKaskadeとかDaishi Danceに近いような印象だった。これはこれで嫌いではないのだが、『Silver Moon』しか知らない僕としては、くるりの曲が流れる状況は想定外だったので、少しだけ困惑。まぁ、ぶっちゃけくるりもハウスも好きだから全然OKだったし、Calmがこういう感じの人だってことがわかっただけ満足だからいいんだけどね。運営の方に感謝。

不運なことに、始まって1時間後くらいに、Chicaneの「offshore」がかかってる時にブチッって電源が落ちて、その15分後くらいにもう一度落ちた。発電機の燃料が切れたのが原因らしい。

Posted by Syun Osawa at 02:23

2010年06月03日

exPoP!!!!! vol.38

2010年05月27日/19:00−22:45/渋谷O-nest

数日前に CINRA.NET のサイトで見つけたイベント。平日とはいえ、I Hate This Placeが出てる! しかも無料! …まぁ、行くしかないわけです。出演は、Cuushe、I Hate This Place、OVUM、cokiyu、miaouの5組(出演順)。日本の音楽業界(もしくは音楽雑誌)で築かれているエレクトロニカ系列のコンテクストとか僕は全く知らないので、I Hate This Place以外の人は、音はおろか名前すら知らなかった。

そんな素人な僕が言うのもなんだけど、こんなに「ラッキー!」と思ったイベントはなかったw 全員、自分のツボにハマった感じ。基本エモーショナルなのも、ディレイかけまくりなのも好きだし、何よりドラムが気持ちいい。エレクトロニカ的なアプローチをライブで体験するときに、自分が感じたいなぁと思っている要素がちゃんと含まれていて、いい感じにお腹いっぱいになった。

爆音で聞かせるOVUMなんかも、ただのToeとかROVOのフリークかと思ったら全然違っていて、凄く熱かった。爆音が素敵。最後の曲でギターの二人が座るあたりが、キング・クリムゾンっぽくて良かったりね(関係ないけどw)。ドラムはcokiyuのサポートで入ってた人が、ダウンビート好きな僕には琴線に触れた。

エレクトロニカ系の女性シンガーのクオリティは相変わらず高いなと思う。今回出てたCuusheやcokiyuもそうだし、何と言うか高止まりしている感がある。バックトラックもいいし、そこに載せるウィスパーな声も日本人のオリエンタルな憂いとかも含みつつ良い世界観を作ってる。ただ、誤解を恐れずに言うと、みんな同じ方向性を持っちゃってるというか、相関係数が高くなってしまっている印象も同時に受けるのだ。エレクトロニカを志向する日本人女子のメンタリティみたいなものに縛られてるような気がするのだが…。まぁ、実際はそんなことないんだろうけどね。

Posted by Syun Osawa at 01:14

2010年06月01日

著作権の世紀 ― 変わる「情報の独占制度」

福井健策/2010年/集英社/新書

著作権の世紀 ― 変わる「情報の独占制度」先日、ニコ生で放送されたJASRACの番組を見て、著作権のことが妙に気になりだした。一番の理由は仕事絡みで知っておきたいことがあったからだが、それ以外にも、最近声高に叫ばれる肖像権の話とか、N次創発的なコンテンツの著作権の所在など、何となく気分で受け入れているようなことが多すぎるような気がして、少しだけ認識を深めておきたいと思ったのだ。

この本の中で特に面白かったのは、「擬似著作権」についてだった(この「擬似」というところが、「疑似科学」を連想させていい感じ)。この擬似著作権というのは、僕らが普段「これは著作権なんだろう」と思っているものが、実は特に法的根拠がないというもので、例えば有名人のペットの肖像権とか車の肖像権みたいなものは存在しないらしい。

そのほか、例えば拝観料をとる神社仏閣の写真などについても興味深いことが書かれていた。通常、こうした写真を出版物などで使用する際、神社などに許可を取る。そして、多くの場合高額の使用料が請求される。しかしこの本によると、本来物には肖像権など存在しないし、これらの物の著作権は当然きれているのだから、それらの物を撮影し、出版物に使用する場合、神社などへの許可を取る必要はないと書かれていた。

では、神社側はどうやっているかと言うと、撮影禁止にしておいて、自分達だけが写真を撮っておく。そして、依頼があった場合にその写真を貸し出すという方法をとるのである。つまり、ここで請求される使用料とは、それを撮影した著作者への著作権料を支払っていることになるわけだ(逆に言えば、自分で撮影してしまえばその著作権は自分になる)。

こうした擬似著作権によって、著作権の囲い込みのようなことが行われている。そして、この擬似著作権を盾にする者は、それがあたかも当然の権利であるかのように振る舞い、ただの業界の慣例であるにもかかわらず、法的な根拠があるかのごとく世間に流布している。これでは偽科学と同じではないだろうか?

疑似科学ネタは、もうかなりやりつくされている感があるので、これに騙される人はだいぶ少なくなったように思う。他方、擬似著作権ネタは僕も含めてまだまだわかってないことが多いので(もちろん正当な著作権や肖像権のことも!)、今後どんどん検証本が出て、擬似著作権ブームが起こることを密かに期待する。

Posted by Syun Osawa at 00:04