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2009年08月31日

真希波・マリ・イラストリアス

真希波・マリ・イラストリアス

あれ? こんな感じだっけw たぶん違う。

ネットにあるフィギュアをもとに描いたら変な感じになってしまった。下半身のタイツっぽいのは、どうも馴染めないなぁ…。

Posted by Syun Osawa at 00:23

2009年08月30日

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 まごころを君へ

監督:庵野秀明/1997年/日本/アニメ

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 まごころを君へ旧エヴァの劇場版第1作『 シト新生 』に続いて観賞。一応、この作品をでエヴァンゲリオンという作品は終止符を打った(はずだった…)。

かつてのエヴァファンはTVシリーズのラストでは納得せず、今回の劇場版のラストでようやく納得したらしい。大塚英志氏は以前、劇場版のラストより、TVシリーズのラストのほうがよかったと書いていたが、僕もそれに同意する。今回、改めて劇場版のラストを観て、その思いはさらに強くなった。ぶっちゃけ、最後の最後でシンジがアスカに「気持ち悪い…」と拒絶されるカタストロフに共感するなんて「どんだけ病んでんだよ!」と、当時も思ったし、今回も思ったわけだ。

そもそも、この作品の超ネガティブな心性が受容された根本は、言葉にできないような不安感を作品の登場人物が共感的に示してくれたからで、そこから得られたものは「みんな不安なんだ」という現状の共通理解からくる安心感だったように思う。当時から揶揄されていた「自分探し」の「自分」は探せなかったけれども、心を開くことによって「居場所探し」の「居場所」は確保できた…という感じだろうか。

あと、当時は気づかなかったが、シンジは結構「助けて、助けて」と我侭ながらも声を上げている。声を上げている時点で、誰かとのコミュニケーションを求めているわけで、無理やり殺戮兵器のパイロットにさせられるという超キツい状況の中で、旧作のシンジも結構がんばってるんじゃないかと思ったりもした。

ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序 』へつづく。

Posted by Syun Osawa at 01:03

2009年08月28日

姑獲鳥の夏(上・下巻)

京極夏彦/2005年/講談社/文庫

姑獲鳥の夏初出は今から15年前の1994年。京極夏彦のデビュー作である。何でもこの小説は、持ち込み原稿だったらしいから、当時これを読んだ編集者はさぞ驚いたことだろう。ミステリーはおろか小説すらほとんど読まない僕でも驚いた。そして、2日間、夢中になって読んだ。

序盤は登場人物の台詞が長々と続いて、なかなか物語が動かない。普段小説を読まない僕は、いつもならここで読むのをあきらめるのだが、不思議と苦にならなかった。とにかく読ませるのだ。一見面倒臭そうな薀蓄も、面白い読み物として読まされてしまう。そして、その面白さによって京極堂のキャラクターがより際立っていく。

荒唐無稽なキャラクターについても、舞城とか西尾とかを読んでいるためか、拒否反応もなく、むしろキャラクター小説としてすんなり読むことができた。逆に妖怪や民話に関する部分はむしろ荒唐無稽さはなく、論理的な方向に還元されていて、そこも僕の性分に合っていた。

物語については、オチも含めて大体のことがある程度読めていたが、語り部となった関口の記憶そのものが曖昧だったりして、話が上手い具合に揺さぶられる。そこから生まれるスペクタクルに何度も感動し、驚かされた。ミステリー小説を舐めてたつもりはなかったけど、こんなにエンターテイメントだとは思わなかったねぇ。いやはや…。とりあえず、京極堂シリーズは地道に読んでいこう。

Posted by Syun Osawa at 00:35

2009年08月27日

コミックマーケット 76

2009年8月14日−16日/東京国際展示場

コミックマーケット 76今回は、門脇舞以さん 所属の りさうた などを目当てに、2日目も参加しようと思っていたのだが、寝坊で気持ちが折れて、結局いつものとおり3日目だけ参加した。いつの頃からかは知らないが、3日目って思ったほど混んでない印象がある。開場30分前に開場へ着いて、10時15分には会場に入れた。

今回は自分の欲しいもの(主にマンガ系と評論系)の場所が東西に分かれてしまって、どちらに先に行くか迷った。運が悪ければ、後に行ったところは売り切れになる可能性があるから、この決断は重要なのだ。結局、批評系同人誌を優先することにし、そちらの同人誌は概ねゲットできた。そもそも無くなる可能性があったのは、東氏のフリーペーパーだけだがw

その一方で、マンガ(つーか、イラスト?)方面では、あきまんの同人誌などは買えず。入場した時間が早かったので、頑張ればもっと買えたんだけど、炎天下の中でかなり待っていた事が響いたためか、バテた。だから、企業ブースもチョロチョロ眺めた程度で、コスプレ会場へも行かずに12時前に退散。滞在時間は過去最短かもしれない。

ところで、批評系のブースは、オタク的視野からデザインを扱う同人誌の数が増えた気がする。僕はその路線は結構好きなので、見つけると反射的に買ってしまうんだけど、この流れがどういう状況を表しているのかは判断つかず。両方とも僕の好きなものなのだが、その二つの相関係数が単純に高まっているのだとしたら、そこはちょっと気になる。

冬こそはもうちょっと、視野の広さを持った巡回をしないとな…。

手に入れた同人誌など

たまご酔拳『淫漫姫』
はぽい処『smile』
高速回転『高速回転のヱヴァの本』
文芸空間社『新文学 02』
OTAD『OTAD vol.1』
オタクブックス『評論東方』
オタクブックス『オタクブックス 第1号』
フラクタル次元『エロマンガノゲンバ vol.1』
波状言論+PLANETS『Final Critical Ride』

Posted by Syun Osawa at 00:39

2009年08月26日

無限を求めて ― エッシャー、自作を語る

M・C・エッシャー/訳:坂根厳夫/1994年/朝日新聞社/四六変型

無限を求めて ― エッシャー、自作を語るヤバい。エッシャーいいわw

先日、奇想の王国 だまし絵展 に何気なく出会ったエッシャーの絵がとても良くて、その後も少し気になっていた。展覧会では、エッシャーの作品は小さな扱いだったが、絵の中に外部のフレームを描くといった古典的なだまし絵の作品よりも、エッシャーの作品のほうが、昨今のポストモダン的な世界の状況を上手く写し取った形でだまし絵に昇華させている気がしたのだ。

エッシャーと言えば、上から下へ流れ落ちた水がいつの間にか上に戻ってくるという《滝》などの絵が有名だが、僕はこの本で「平面の正則分割」を軸にしたパターンこそがエッシャーの真骨頂であることを知った。例えば次の《昼と夜》などはわかりやすい。

エッシャー《昼と夜》

黒と白の鳥の輪郭がそれぞれの身体を補完しあっており、黒の鳥に注目すれば白の鳥は背景となり、白の鳥に注目すれば黒の鳥が消え去る。これはただの図像のトリックのような印象を受けるかもしれないが、彼はこうした絵画に「無限」を追い求めているのである。次のような絵画はさらにわかりやすい。

エッシャー《循環》

この《循環》という作品では、三次元の人物が二次元になり、記号化することによって無限に続くパターンへと移行していく姿をかなりベタに描いている。そのほか、次の《爬虫類》という作品では、絵の中でパターンの一つを形成しているトカゲが絵の中から外に飛び出して、再び絵の中に帰っていくという循環を描いている。

エッシャー《爬虫類》

一部には、これらの作品に霊魂再来説を期待する声もあるらしいが、エッシャー自身は説教や象徴的な意味は込めていないと繰り返し述べている。僕は彼のイデオロギーのないパターンの世界に、記号に埋め尽くされた再帰的な日常といった今日的な社会状況を読み込んだ。

もちろん、《滝》などの永遠の運動も見過ごせない。無限階段なども含め、リアルな立体モデルを使った不思議な空間には閉じた世界の人間の有り様が見てて取れる。《相対性》では複数の人間が同じ階段を利用しているにも関わらず、使っている次元が違うためにお互いがお互いに気づくことができない。このモチーフは イシュトヴァーン・オロス氏の作品 でも登場しており、その意図上手く昇華している。

そこにあるのは、絶対的な孤独である。そして、彼の描くパターンの世界でも同じことが言える。黒と白が密接につながっているにもかかわらず、その両者を同時に眺めることができない。つまり、互いの生存のための条件が、互いの存在を否定することになっており、相互関係が失われているのだ。

無限に繰り返され、増殖していくパターンの世界では、黒と白が織り成すダブルイメージから逃れることはできい。しかしイデオロギーはなく、そんな世界を境界線によって規定することもできない。先日、セカイ系のイベント に行ったこともあって、これらのエッシャーの作品世界を体験しているうちに、ギデンズが言うところの社会の再帰性やセカイ系のイメージがぼんやり浮かんできたような気がした。

Posted by Syun Osawa at 00:38

2009年08月25日

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH & REBIRTH シト新生

監督:庵野秀明/1997年/日本/アニメ

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH & REBIRTH シト新生新劇場版の を観て、昔のエヴァも観たくなった。当時、それほどナイーブにこの作品に触れていたわけではないので、TVシリーズまで遡る気にはなれず。とりあえず劇場版だけ観ることに。

新エヴァと比べると、こちらの作品のほうが圧倒的に展開が早い。序では「笑えばいいと思うよ」の有名なシーンをラストに持ってきていたが、本作では開始30分ですぐにこのシーンが登場する。本来僕らが観客として楽しむべきはずのドラマ部分はあまり重要視されておらず、象徴的なシーンをつなぎ合わせ、それをテロップによる文字で固定している。そして、エヴァの世界観だけが印象付けられるような映像の上に、それぞれの登場人物が抱えている苦悩が心の声として被せられている。まるでトリップ映画のようである。

こんな作り方だったら、そら観るほうの内面も肥大化されて当然だろう。TVシリーズを観ていることを前提に作られた映画だろうから、細かな部分は端折ったのだろうが、これだけ観ても内容はほとんどわからない。シンジやアスカは絶えずブツブツ言ってるし、他の登場人物もトラウマ抱えまくっていたり、昼ドラ並みに人間関係がもつれていたりで、ネガティブな印象だけがプロパガンダされている。そういう意味で、旧エヴァの劇場第一作は、序と比べても結構ヤバめな作品だったのかもしれない。

それに比べたら新ヱヴァは心の声が明るくなっていて、しかも言葉ではなく行動でそれを示している。さらに、ドラマの部分で劇的な演出をするためか人間関係が整理されており、見通しがよくなった。例えば、4thチルドレンのトウジとシンジが対決するシーンで、トウジのポジションがアスカに変わっていたりして、演出による効果は前作より高くなっている。

新ヱヴァは見通しが良くなりすぎて、旧エヴァにあったオルタナティブ感や、わけのわからなさはなくなってしまったことは事実だ。それでもTVシリーズから始まって、旧劇場版、新劇場版と何度も同じストーリーを繰り返しているにも関わらず、素直に新エヴァが面白いと感じたということは、この作品にそれだけのポテンシャルがあったということである。よって、この作品は90年代後半というバブル崩壊後の見通しの見えない日本を象徴した作品である以上に、時代を超えて支持されうる普遍性を帯びた作品に近づきつつあるとも言うことができるのではないか。

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 まごころを君へ 』へつづく。

Posted by Syun Osawa at 00:16

2009年08月24日

Aira Mitsukiインストア・イベント

2009年8月2日/20:00−20:30/タワーレコード渋谷

僕が行ったインストアの中では一番盛り上がったかも。

ステージの観やすさだけを考えれば、石丸電気の7階が一番なんだけど、あそこは基本着席なので盛り上がり的にいま一歩なところがある。タワーレコード渋谷の地下はライブ会場っぽいので音もそこそこ出せるし、一番盛り上がる場所なのかも。

オープニングでAiraの曲をBeastie Boys「Ch-check It Out」と混ぜてたのは、Novoiski氏の『 Starry Sky YEAH! Remix 』なんだろうね(当たり前だが)。あれ石丸でもやってたし。ああいうネットの動きに反応してしまうのは、スタッフも完全に2ちゃん脳というかニコニコ脳だからなわけで、スタッフとファンがレイヤーこそ違えど実は凄い近い場所で邂逅してるところが、まぁ…魅力といえば魅力なのだろう。

今回のイベントでは超久しぶりに『 ハイバッシュ 』が聴けて満足。しかも、その流れでタワーレコード特典の新譜「Spring Sky」も聴けた。この曲はインパクトあるし、マイナー調のリフも僕の趣味に合ってる。正直「何でタワレコ特典なの?」ってくらいサビで掴んでるんだけど、それ以外のところの展開がわりとラフというかダルいというか、つめが甘い感じなのであえて外したのかな?

2ndアルバムの曲の中では「Bad Trip」が一番好き。これは 前回 も見て、かなり確信に近くなってる。やっぱりあの拳を突き上げるポーズがいいね(一瞬だけど)。次は9月のワンマンライブ、楽しみですな。

Posted by Syun Osawa at 01:16

2009年08月23日

『社会は存在しない』刊行記念イベント

2009年8月2日/17:30−19:20/青山ブックセンター 渋谷店

『社会は存在しない』発売記念イベント他のイベントに行く目的で渋谷に行ったら、いいタイミングでやっていたので、飛び込みで参加した。だから、この本に対する知識はゼロ。おそらくかつて隆盛を極めた「セカイ系」のまとめ本か何かだろうと思って、しかもそのトークイベントなら、まとめ本をさらにまとめてくれるに違いないと甘いことを考えたわけだ。

出演者は、佐々木敦氏、蔓葉信博氏、渡邉大輔氏、山田和正氏の4人。

当時も今も変わらないのは、結局「セカイ系って何?」という問いが僕の中で全然クリアになっていないことだ。僕の場合、セカイ系って要するに『エヴァ』とか『ほしのこえ』とかそのあたりの作品の世界観を言っているのだろう…くらいの認識しかないので、セカイ系という言葉を前提にして話をされている部分などは正直上手く飲み込めたわけではない。

ひとまずセカイ系を、特定のジャンルの作品だと思えば、わりとスッキリする。たしか宇野常寛『 ゼロ年代の想像力 』では狭義のセカイ系とした上で、一部の作品を批判していたと思う。今回のイベントでは、狭義のセカイ系というよりは、宇野氏の批判も飲み込んで、社会思想にまで拡大された広義のセカイ系を扱っていて…たかどうかは知らないが、再び「セカイ系」という言葉を大海へと解き放とうとしているようにも感じられた。ということは、発売された本は、まとめ本ではないのかも…。

で、セカイ系。それでもよくわからない。

話を聞くかぎり、とりあえず「批評家の語りのツール」としてセカイ系はまだ有効だよ、と言っている様にも聞こえる。それは、廣野由美子『 批評理論入門 』でいうところの「ジェンダー批評」とか「ポストコロニアル批評」みたいな批評のスタイルに「セカイ系批評」が加えられたということなのかもしれない。

だとすると、僕の中のセカイ系のイメージはこんな風になってしまう。

セカイ系とセカイ系批評のイメージ図

今回のイベントでは佐々木敦さんがセカイ系に対して(新ヱヴァに対しても)身も蓋もないことを言っていて、その様子が 東工大シンポジウム での浅田彰氏の態度と被っていて面白かった(終了直前に退出するところまで同じだった)。

突然、投資の話につなげると、近年は日本株式、日本債券、海外株式、海外債券などフィールドの異なる投資先の相関係数が高まってきている(相関係数が1になると完全連動)。そのため、分散投資の効果が低くなってきており、投資リスクを考える上ではよくない状況が続いている。サブプライムショックは、本来直接的な関係がないはずの日本市場にまで大きな影響をおよぼした。

こうした状況が、サブカルチャー界隈の批評の世界でも起こっているような気がしている。ようするに、僕は今の社会は「相関社会」だと思っている(つまり、無関連化などしていない、むしろ逆である)。そして、その状況をあまり好ましく思っていない。

登壇した佐々木氏は、サブカルチャーを語る論者としては東浩紀氏と対極に位置する人のように思えるし、ポスト作品論的な批評のスタンスにもひかれるものがある。彼のスタンスは、ゼロ年代にゲームボードの覇者となり、「批評は社会学化している」と説く東氏の対極に位置する存在だと思うので、分散投資派(ここでは様々な角度からの主張を聞きたい、という意味)としてはありがたい存在なのだ。

関係ないけど、僕が毎週見ている『 西部邁ゼミナール 』の西部邁氏の話も、相関社会の知の分散投資という意味で大変貴重なのである。

ところで、佐々木氏と東氏を対立軸にしてものを見たとして、そのときに一点気になるのは、東氏が主催しているゼロアカ道場の優勝し村上氏は、東氏が期待していた『ゼロ年代の想像力2』のような文章を書いておらず、どちらかというと佐々木氏に近いような文章を書いていることが少しだけ気にかかっている。彼が著作の参考文献としてばるぼら氏の『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』を挙げていたことも無関係ではないだろう。つまり、こんなところにも相関社会の影が落ちているかもしれない…というわけだ。

Posted by Syun Osawa at 00:20

2009年08月22日

ヱヴァンゲリオン 新劇場版:破

監督:庵野秀明/2009年/日本/アニメ/新宿ミラノ

ヱヴァンゲリオン 新劇場版:破面白かった。つか、楽しかったw

内容が旧エヴァとどう違っているかとか、旧エヴァの中に潜んでいた問題はどう克服されているのかというような面倒くさい話は抜きにして、登場したキャラクターがかなり自由に動いていて、それが何より楽しかった。旧エヴァが持っていた複雑な世界観がある程度明るみになった今の状況下で、あえてエヴァを新シリーズとして続けるのなら、アクションのクオリティやキャラクター性をより前面に押し出すのは必然ともいえる。

そうした興味で言うと、最近見たアニメ作品の中では『 ノエイン 』第1話や『 エウレカセブン 』第26話の戦闘シーンなんかがそれに近い。あの圧倒的な動きが全編にわたって繰り広げられており、特に今回はアスカだけでなく、新キャラの真希波マリの操縦するエヴァもかなり奔放に動いており、アクションの醍醐味を見せつけてくれた。

この流れはゲームで言うところのファンディスクに近いのかもしれない。新劇場版はTVシリーズよりも時間が圧縮されているため、物語の進行がかなり急ぎ足なのが残念だが、その点も含めて僕にはOVA『トップをねらえ』の頃のガイナックスっぽくて好感触だった(実際の制作はガイナックスではなく、庵野氏が設立したカラーだけど…)。

ストーリーのほうは若干単純になっているような印象を受けた。日本以外の国々と整合性を持たせているために妙に開けた感じになって、逆に終末観が弱くなってしまってる。漫画だと望月峯太郎『ドラゴンヘッド』なんかでも、世界が開けて状況がわかってしまうと、見通しがよくなって、どうしても緊迫感が薄れてしまう。

これは仕方ないわけだけど、そうした弱くなってしまった部分を、圧倒的な動きと『トップ』の頃にあった過剰な乳揺れあたりで補っているもんだから、ファンディスク的要素が強くなってしまったのだろう。で、僕はどちらかというと、初期ガイナックスの時代のこういう側面が好きだったので、普通のアニメファンとしてかなり楽しめた。

レイの妙に艶っぽい成長だったり、新キャラの積極的なキャラ設定が、何もしないシンジのハーレム度をさらに高めているような気がして、そこはちょっと気になってはいるが、アスカとマリの微妙な対立軸なども含めて、恋愛要素がヲタの脳髄を刺激することは間違いない。僕もすっかりやられてますw

てな、萌え要素はさておき、僕がエヴァシリーズの中で一番感銘を受けているポイントは別にある。それは「ピンチ」の演出だ。今回もこの演出が冴え渡っていて、それだけで僕は大満足だった。宮崎駿直系というか何というか、ギリギリのところでいかに切り抜けるかというあのスピード感を出せる人ってそうはいない。そして、今回はTVシリーズ以上に、そうしたシンプルなアニメの面白さに貫かれていたように思う。

『ヱヴァンゲリオン:Q』へつづく

Posted by Syun Osawa at 00:53

2009年08月21日

考えるヒント

小林秀雄/2004年/文藝春秋/文庫

考えるヒント小林秀雄の本は、以前から読んでみたいと思っていた。でも、僕には若干ハードルが高い気がしたので、彼の本の中でも一番簡単に書かれていそうなものを読むことにした。それがこの本。

新聞に掲載された短評の類はわかりやすく書かれているのでサクサク読める。その一方で、「平家物語」やら「福沢諭吉」など文芸誌に掲載されたものは、僕の脳力ではなかなか難しかった。

難しい言い回しを僕なりに解釈しながら読んでいて感心したことは、彼が考えながら書いているということが、非常によく伝わってきた点だった。これは、まとまらない考えをダラダラ書き連ねているという意味ではない。ましてや、要約でもなければ、アナロジーに頼っただけの衒学趣味でもない。そういうお手軽なところから何歩も踏み込んだ領域で、自分の考えを、しかもクリアに書いている感じがして、さすがは文芸評論家だなと感心したわけだ。

例えば、僕はこのブログでも読書やイベントの感想を書いているが、正直考えて書いているかといえばやや疑問である。自分で書いたエントリを後日読み返すと、ただ本の内容が長々とトレースされているだけだったりすることも少なくない。要するに自分の考えが書かれていないのだ。

この本の中では、本居宣長の「意は似せやすく、姿は似せ難し」という言葉を受けて、著者は自分なりの考えを書いているところが一番よかった。彼の「姿」の捉え方が素晴らしい。ここでそれを書くと単なるトレースになるので省くが、ともかく、彼の「自分の頭で考えて、自分なりの考えを書く」という態度そのものに、僕自身は考えるヒントを貰ったと思う。ただし、「じゃあ、この文章は考えて書いたのか?」というツッコミだけは、華麗にスルーすることにしたい。

Posted by Syun Osawa at 00:03

2009年08月20日

稲垣早希=Alive3論争=7人制ラグビー=西部さんw

エヴァ芸人…知らんかったなぁ。全然、知らんかった。エヴァ芸人と言えば、東京では『アメトーク』に出演していたエヴァ好き芸人の事だと思ってるわけで。

桜の稲垣早希。知らんかった。

アイヲタ的に完全にツボですやん…。可愛すぎますやん…。

吉本所属のアイドル(一応、芸人?)でツボったのって、大阪パフォーマンスドールの武内由紀子以来かも(おい)。2ちゃんのスレ見たら、NHK教育の実況スレ並みのスピードやし、ブログのコメントは500近くついとる。すごっ! こんなに人気のあった人を今までまったく知らなかったとは…完全にアンテナが錆びてるわ。

実際の映像にアテレコした動画 とかマジか! イベント行きてー!

ノイズ・キャンセリング・ヘッドフォンの今

とある中古販売の音響機器ショップに行ったら、ノイズキャンセリング・ヘッドフォンの値段がずいぶん下がっていた。PanasonicのRP-HC500が7800円、Audio-TechnicaのATH-ANC7が10800円、BOZEのQuietComfort3が30000円。BOSEは相変わらず高いが、これは性能というよりはブランド力によるものだろう。その昔、店頭でこれらのヘッドフォンの音を聴き比べたことがあるが、BOSEだけが突出して良いというほどでもなかった。

で、僕は2年前にAudio-TechnicaのATH-ANC7を買った。これはノイズノキャンセリングのメリハリが効いていて、効果を実感しやすい機種で、今も現役で活躍中だ。いつ何時壊れるかもしれないので、もう一台予備で買っておきたいのだが、欲を言えば、コードレス型のノイズキャンセリング・ヘッドフォンというアクロバティックな商品が出ることを密かに期待している。コードレスな時点で別な内部的なノイズが混入するはずなので、そういう商品が出ることはないだろうけど…。

同人誌『Final Critical Ride』のラジオについて

この前のコミケで購入した東&宇野氏の同人誌の付録CDに収録されたラジオを聴いたら、熱かったので先に取り上げておく。

『ディケイド』狂いの乱痴気ラジオなのかと思ったら、突如「東 VS 荻上」というリアルバトルが勃発し、それが1時間くらい続くというよくわからない展開で面白かった。先が読めない展開っていいよねw 東浩紀の突然の戦闘モードはライダーに通じるところがある。

ところで、このラジオの中で、宇野氏が7年間京都にいたと語っていたけど、それはつまり、7年間大学生をやっていたということかな? あと、宇野氏は『PLANETS』という同人誌を1冊つくるのに、170万円をポケットマネーから持ち出してやっているそうな。かつて『QuickJapan』を自費で立ち上げた赤田祐一氏に繋がる熱いものを感じさせますなぁ。僕も『PLANETS』は1、2号だけコミケで買って持っている(未読だけど…)。いつか値打ち出るといいなぁ。

手に入れた本など

矢野健太郎 監修『モノグラフ 公式集』(科学新興新社)
『最新世界史図説 タペストリー』(帝国書院)
小尾信彌『新・太陽系の科学』(日本放送出版協会)
富田光男『見せる!魅せる!!科学の実験』(裳華房)

ジブリの宣伝誌『熱風 2009年7月号』では石井プロデューサーが「東のエデン」について語っている。今の時代に対応したアニメを意図して作っているらしく、批評家側だけでなく作家側でも社会学化が進んでいるということなのだろうか。これは完全にマズい傾向だと思う。

紀伊國屋書店の宣伝誌『scripta no.12』の上野千鶴子氏のコラム。今回は「非モテのミソジニー」で、モテない者同士仲良くしてくれるのかと思ったら、やっぱり厳しかったね。小学館『一冊の本 2009年7月号』と前号では、笠井氏と北田氏の対談。オチが弱かった。

Coldplay - Strawberry Swing

2ちゃんの某スレに貼られててえらく感銘を受けた。これを作ったSHYNOLAって何者や?と思ったら、めっちゃ昔にBEMODでも取り上げていた Queens Of The Stone Age - Go With The Flow を作った人だった。凄い。

7人制ラグビーがオリンピック種目の候補に

実は7人制ラグビーを描こうとして、見事に失敗した作品が『 弾丸 dangan 』という漫画だったりします。まったくラグビーの持ち味を出せてません^^; きっと、誰かが7人制ラグビーの面白いマンガを描いてくれるに違いない。僕はそれだけを期待しています(ジャンプなら…ジャンプならきっと…!)。

ゼロアカ道場、優勝者決定!

第五関門イベント で、は、僕も村上氏に投票したので何だか嬉しいですね。熱い本になることを期待します。それにしても、ゼロアカ道場は2ちゃんのスレ、ザクティ動画とセットで見ると、これまでに経験したことのないエンターテイメントがあったと思います。

『ライ麦畑』続編の出版差し止めに反論

米メディア大手4社の主張は面白い。「著作と登場人物について論評を加えることを認めない、隠とん生活を送る作家の要望を満たさないことによる唯一の損害は、作家のプライドを傷つけるという点のみである。実質的な金銭的損害は無い」と反論しているそうな。日本とは全然違いますよね。僕はこっちの意見のほうがスッキリしている気はするが…。

西部邁氏の発言ワロタw

これ最後、めっちゃ笑ったw チャンネル桜で保守のことについて話をしているんですが、最後の最後の発言ですべてがひっくり返ったのが面白い。ちなみに僕はMXで放映している「 西部邁ゼミナール 」はすべて見ている。ゲストを歌で迎えるとか、いろいろ新鮮です。

本土決戦 2009

ロスジェネ世代(つまり僕ら)だって、いつかは若者からコテンパンにされるんだ。赤木氏は「希望は戦争!」と言うんじゃなくて、「希望は徳政令!」と言うべきだったよね。

教育改革はなぜ失敗するのか

「繰り返しゲームから戦略的ゲームへの転換」か…面白いですね。「セカイ系から決断主義へ」とは全然リアリティが違うな。いや、そこはむしろ一緒なのかな?

1. 日本型:会員権 ― 長期的関係 ― 文脈的技能
2. 英米型:所有権 ― 労働市場 ― 専門的技能

ともかく、1から2への転換が必要らしい。そもそも僕に専門的技能なんてあるのかな? ないなら、2の選択肢は結構厳しいな。

Posted by Syun Osawa at 00:14

2009年08月19日

奇想の王国 だまし絵展

2009年6月13日−8月16日/Bunkamura ザ・ミュージアム

だまし絵展チケットショップでだまし絵展だけがずっと高値だったので気になっていた。きっと話題の展覧会なのだろうと思って、開館直後を狙って行ったのに、それでもかなり数の人が行列をつくっていた。特にカップルが多い。美術館には行きたいけど、普通に絵を見るのは退屈…というカップルにはうってつけのイベントだったのかもね…。

で、だまし絵の話。

僕が最初に思い描いていただまし絵というのは端的にエッシャーみたいな絵だったので、今回、その予想は軽く裏切られた。一般的にだまし絵と呼ばれる絵は、絵の外側にある額縁やら壁やらを絵の中に描き込むことで、絵とその外部の境界を曖昧にしているような絵のことを指すらしい。

こういう絵がだまし絵と呼ばれるのは、絵というものは額縁の中におさまっているものだという固定概念があるからなんだろう。だいたいどの絵も、左上から光が当たっていて、右下に影を作っている。誰が決めたわけでもないんだろうけど、絵の外部にある立体のイメージもルール化されていて、その制度化された観賞方法を揺らがせることに面白みを見出そうとしている点は、とてもメタ的だといえる。

通常の絵の外部にあるものを絵の内部に取り込むことで、絵そのものの平面的な価値を浮かび上がらせる…みたいなことが作品の一つの目的になっていて、これを言葉にして読み込むとたしかに評論っぽく感じられる。ただ、絵を絵のままに見たとき、言葉を越えて伝わってくるような何ものかを感じることはなかった。

僕がこれらの絵で面白いと感じたのは、だましの部分ではなく、壁に固定された紐に差し挟まれた新聞や筆記用具などから当時の文化の状況が見えてくるところだ。絵の外部が描かれていることでその点がより鮮明になっており、絵の目的とは別のところで僕は結構楽しめた。

日本にもだまし絵は結構あるようで、今回の展覧会でも紹介されていた。日本画は洋画よりも平面的なので、平面的な絵が外側の世界との境界を曖昧にしているところは、西洋のだまし絵よりも過激な気がする。歌川国芳の絵だったり、鞘絵や影絵なども恐らくは西洋からの影響を受けているのだろうけど、日本が特有の記号的な処理がだまし絵の持つリアリティの窮屈さを解放している気がしたので、だまし絵としては日本の作品のほうが自由度が高いように思えたのだ。

展覧会の後半、ルネ・マグリットあたりから、ようやく僕の知るところのだまし絵っぽくなる。見た目も派手になって、手品で言うところのイリュージョン化がすすんでいる感じだ。パトリック・ヒューズ《水の都》などはその極点みたいな感じなのだが、もはや平面ではない。

視覚のトリックはたしかに楽しいので、掲げられている絵をただ漠然と眺めているだけでも十分に楽しめる。ただ、途中からはだまし絵が持つ「ダブルイメージ」の概念のほうが気になり始めていた。

特にエッシャーの作品はその点が明確である。しかも、ダブルイメージの中にアレゴリーが読み込めない。そこで提示されている絵は、ただただ機械的というか、工業的というか、二つのイメージがあるというだけなのだ。そうした冷めたところも含めて、彼の作品についてはかなりの興味を持った。だまし絵そのものにはそれほど心動かされるものはなかったが、エッシャーに対する僕の中での盛り上がりこそが、今回の展覧会での一番の収穫だったかもしれない。

Posted by Syun Osawa at 01:23

2009年08月18日

ガンパレード・マーチ(全12話)

監督:桜美かつし/2003年/日本/アニメ

ガンパレード・マーチ ― 新たなる行軍歌ゲームのアニメ化なら必ず面白いというわけでもないんだな…。しかも、ガンパレって元はエロゲなんだと思ってたら、違うのね。

エロゲ原作のアニメは『 AIR 』とか『 ひぐらしのなく頃に 』など今までハズレが少なかったし、『ガンパレードオーケストラ』とかいう似た作品も出ているので、そこそこ人気作品なのだろうと思って観たわけだ。そしたら、実はこの作品、そもそもエロゲじゃなかった。どうやら『サクラ大戦』あたりの系譜にのってくるような作品らしい。

ゲームの話はさておき、アニメを見る限り、作品の世界観というか物語の駆動している装置そのものはそのまま『ヱヴァ』だった。地球を襲う謎の生命体を高校生が撃退する日々が続いているという世界観。『ヱヴァ』の使徒は有限だが、こちらの幻獣は有限であるようには描かれていない。そのため、幻獣に対する言及は少なく、謎解きの要素もほとんどなかった。

ようするに、非日常(戦時下)の世界でも人間は泣いたり笑ったりして生きるよ…みたいな、高校生達の青春群像劇だったわけだ。個人的にはもう少しセカイ系的な怪しさとか、軍国主義を想起させるようなイデオロギーが絡まってくるような展開が欲しかった。だって、戦場でクラスメイトが一人死ぬ以外は、本当に本当に普通の恋愛アニメだったのでw

以下、感想メモ。

第01話 プレイバック

予備知識ゼロで見始める。何だかよくわからない敵がいて、それらに少年少女が迎え撃っている。『エヴァ』以降のセカイ系的想像力によってつくられたゲームのアニメ化なんだろうか? いや、ちがうな。結構ベタに日本が戦後に作り上げた黄金パターンなんだろうね(たとえメタ的に設定をいじくったとしても…)。ともかく、少年少女が戦っているという状況を見るにつけ、誰が彼や彼女達を戦地に向かわせているのかが気になり始めた今日この頃。

第02話 勝手にしやがれ

芝村登場。彼女のように少し影がってあって、しかも強い戦闘系美少女はこの手のアニメにかかせない。瀬戸口という男のナンパ話とかもあって、ゆるーい感じで話は展開。それぞれのキャラクターがそれぞれの持ち味を順番に出しあって、何となく楽しい…みたいな雰囲気は萌えを踏まえた作品の特徴でもあるんだろうけど、僕はちょっと苦手かもしれない。

第03話 サマータイムブルース

高校生くらいの男女が徴兵制によって戦地へ送られていることを知った。すごく瑣末な突込みをすると、マシンの操縦って普通は熟練の技術が必要なわけで、あまり若い人が向くとは思えない。今回は少しだけ戦いに翻弄される若者の日常部分を少しだけ描いていたが、深さはなかった。ストーリーもこれといった進展はなし。

第04話 二人でお茶を

速水と芝村がコンビを組むことに。芝村は自分のコミュ力の無さを改善しようとは思っているらしい。でも二人の息は合わず。シンジとアスカかよ…という、エヴァっぽい流れがありつつも、ノリは軽め。

第05話 枯葉

壬生屋未央が死んだ。この回はそれだけの回。重要な役どころではなかったけど、個人的に好きなキャラだっただけに残念。ミドルポイントまでは少しあるのに、先に死なせたということは、この後にも何か大きな転機が用意されているのかな? ところでこの作品、今までの回だけを見る限りでは、エヴァの戦闘シーンと学園生活のみを抽出しただけのフェティシズム作品と言われても仕方がないくらいの内容ですが…。

第06話 君去りし後

この作品にマジレスは禁物なのかもしれないが、高校生が戦闘を繰り返している状態にあって、その高校生達は出撃前は普通に街の学校へ通っている。そして、街では普通に一般人が生活を営んでおり、街に荒廃した様子は無い。うーむ、よくわからない状況だ。

後半にまたまた戦闘シーンがあり、ここで上司の冷静な指示に対して、高校生戦士が高校生ゆえの苛立ちを爆発させるシーンがある。軍人がああいう風な取り乱し方するのは明確に変だし、それが高校生ゆえということであるのなら、この設定は明らかに中二病について一切の検討を加えることなく商品化したと思われても仕方がないだろう。そうじゃないことを祈りたいが…。

第07話 長い夜

エヴァに加えて、ナウシカの要素も入ってる。どう考えても、幻獣の群れの中を心を無にして突っ切るところはこの回で最も重要なシーンだったはずだ。にも関わらず、画としてはほとんど動かず、会話劇で長々と粗筋を説明させている。予算や日程などの関係もあるだろうし、限られた人員で作品を作らざるをえない今の商業アニメの世界においては、これはやむをえないことなのかもしれない。しかし、監督の本意ではないだろう。

第08話 四月になれば彼女は

速水を一方的に恋する女の子が登場。歳をとってるのにこういうアニメを見続けると、こういうキャラクターに激しく既視感をおぼえてしまう。あと、この手のキャラクターによって、芝村との間に別の恋愛感情が芽生えるとかも…。では、そこに既視感をおぼえてしまう人のために、少し変化球を加えたキャラクターを登場させないといけないのかというとそうではない。大人になってもこの手のアニメを見続けている僕が悪いのだw

それにしても、幻獣との戦いと恋愛のシーンが完全に切り離されてパラレルに存在しているという、わりと最近のアニメ作品によくある状況は何とかならんのか。これでは、AVのドラマ部分とセックス部分の完全分離状況と少しも変わらないぞ。

第09話 君にこそ心ときめく

ストーリー終盤の第09話にまさかのキャラクター紹介。スポンサーか誰かに「もっとキャラクター性を強く出さないと売れないだろ」とか言われたんだろうか? この回は速水と芝村を周りのみんながくっつけようと画策する話がメイン。オチとしては、何だかんだ上手くいっているという、超ぬるい展開。さすがにもう少しドラマ欲しいよね。

第10話 悲しみよこんにちは

世界の存亡がかかわる幻獣の襲来に対抗するべく組織された高校生の軍隊。彼らは学校に通いながら、軍隊の活動をしている。この時点でトンデモなわけだけど、エヴァの二次創作的な方向性だとすればそれはそれなんだろう。ただ、今回は学校で文化祭の出し物としてクラスで劇をやるという回で、日常を描くにもほどがあるだろうというリアリティのなさ。ここでいうリアリティのなさというのは、戦時下でも人は笑うというリアリティとは根本的に異なる、ただの日常劇が繰り広げられていることに起因している。唯一、後半の幻獣襲来と劇中劇の絡ませ方は、演出としては悪くなかったと思う。

第11話 言い出しかねて

残り1話にして、クリスマスパーティーとか…。しかも、あまりにもあり得ない純情路線。芝村と速水の恋愛ネタも突然出てきた感じで、この二人の心理描写を丁寧にしないままに、いきなり二人は両想いみたいになっている。設定から逆算すれば、そうなることはわかっているとはいえ、ドラマを描かないままに突然湧き上がったようにお互いの距離が近づく話が挿入されるのはいかがなものか。

あらすじやプロットだけを追いかければ、それなりのストーリー展開に見えるかもしれないが、実際の作品の中には僕の心を湧き上がらせてくれる様なドラマは何もないのだ。また、戦争のほうも中途半端で、彼らは幼いとはいえ軍人であるにもかかわらず、社会的な状況と日常生活との間での葛藤もない。

第12話 さよならを言う度に

最終話だというのに、幻獣との戦いにはほとんど踏み込まず、芝村と速水の恋愛ネタだけを拡大解釈して、それこそが人間にとっては大事だというような「エヴァだって似たようなオチつけたんだから、俺たちもこういう終わり方アリだよな!」的な甘えたお話で終わった。これで見ていた人は納得するのだろうか?

ゲームでやっていた人は、最初からこの作品の世界観なり設定なりを共有していたから、ゲームでは描ききれなかった人間模様のほうをアニメで補完したという事ならば、アニメしか見ていない僕はあきらめるしかない。正直、一生懸命作っている制作の人には悪いけど、さすがに「これはないだろ…」と思った。

Posted by Syun Osawa at 00:09

2009年08月17日

学力と階層

苅谷剛彦/2008年/朝日新聞出版/四六

学力と階層この本の前半は、社会学の論文のように面倒臭い調査の結果から、わりとまっとうな(悪く言えば、当たり前すぎてつまらない)結論を導き出す展開だったので、少し退屈だった。

それは次のようなものだ。かつて総中流社会と呼ばれた日本にも階層差は確実に存在している。しかし、日本ではそれが見え難くなっているため、「機会の平等/結果の平等」といった議論の中でもその点が無視されているそうな。

子ども自身の「がんばる/がんばらない」という能力差だけが結果の不平等をもたらしているとすれば、それは機会の平等が先に与えられているのだから、それは「自己責任」だとする人は少なくない。しかし、もしも出身階層による差が子供たちの機会の平等という前提すら崩しているのであれば、その点については考えていく必要があるのではないか。

まぁ…そうだわな。最近も親の年収差が大学の進学率に影響していることがニュースになっていたし、小泉改革以降に明確に格差が拡がっている。そういう状況を考え合わせれば、今後、この問題が社会問題化していくことは避けられないと思う。

…というような話を、学者が地道な調査によって明らかにしたという学問的な内容だったので、一般の読者が呼んでも「まぁ…そうでしょうね。」としか思えないわな。実際その通りだという実感もあるし。

その一方、本の後半は、文芸誌に連載されていたものだったので、エビデンスwをあまり重要視していない分だけ話が回転して、普通に読み物として面白かった。僕の知らなかった社会の捉え方が展開されていたし、時代の空気に触れるという意味で結構な指標になったと思う。

特に社会的再帰性と個人的再帰性の話を日本の教育の話と接続させていたところがよかった。最近のアニメでも『涼宮ハルヒの日常』という作品で終わりなき日常のループを描いている「エンドレスエイト」問題なんかが話題になったけど、バブル崩壊以降の日本ではどんどん社会の再帰性が意識されるようになっている。

そうした社会では、

一部の人びとのみが情報を握り社会を統制するのではなく、多くの人びとが、社会のあり様を認識し、変化に応じて更なる変化を引き起こすような働きかけにかかわり合っていく。

これにより「個人と国家・公共とが「参加」のロジックでダイレクトに結びつく」ようなセカイ系的な社会になり、「民意の反映をそのまま直ちに、民主主義の実現と見立ててしまう「ためのなさ」」が「自己責任」を強要する。

社会全体が自らモニタリングしながら進んでいく再帰的な社会の中で、個々人が描く社会そのものが島宇宙化し、さらにセカイ系的な個人と社会の接続が政治的な実効性を持ってしまうとすれば、そんな社会は乗客全員の座席にハンドルがついたバスのようなものだろう。

たとえ乗客全員が運転免許を持っていたとしても、そして、全員がハンドルを付いている状況を理解していたとしても、恐ろしい状況になることは目に見えている。自分一人がレーシングドライバー並みの運転技術を持っていたとしても、僕たちの乗っているバスはあくまで一つなのだ。だからこそ、こういう状況下でいかに乗客全員の合意形成を図れるかが、大きな事故から身を守る重要事項であることは明白だ。僕らはそういう社会に生きていて、そういう意味で誰かのハンドル操作の誤りを自己責任として見過ごしてはいけないと思っている。

Posted by Syun Osawa at 00:46

2009年08月16日

しぶとい分散投資術

田村正之/2009年/日本経済新聞出版社/四六

しぶとい分散投資術現状のおさらい。サブプライムショック以降、世界的な株価下落の局面では分散投資の効果が得られないことが明らかとなった。そして近年、日本株式、日本債券、海外株式、海外債券の相関係数が高まる傾向もあって、長期投資を行う際に「分散投資と資産配分だけ気にかけていれば、あとは放置でOK」という楽観的な神話をそのまま受け入れることも難しくなっている。

では、どうすればいいか?

一番簡単な方法は、素人が投資に手を出さすことをやめることだw ただ、そういう身も蓋もない答えでは僕自身の欲望は満たせないので、投資をすることを前提に上手い方法を考えなければいけない。とは言うものの、そうした方法論を独自に展開している書籍は意外に少なく、僕の読んだ本の中では、唯一、中原圭介氏が『 サブプライム後の新資産運用 』で具体的な例を示していたくらいしかなかった。

この本は、タイトルに「しぶとい〜」とあるように、サブプライムショック後も分散投資は有効だよということを説明している本である。分散先の相関係数が高まっているからといって、その数値が完全に1になっているわけではないので、確かにその通りだろう。実際に僕もそうしているし、そうする以外の方法を知らないのだ。

ただ、繰り返しになるが、これまでの多くのインデックス投資本に書かれていた楽観的な見通し、「何だかんだ言っても世界全体で考えれば経済成長を続けているわけだから、市場全体にお金を投じておけば、上がり下がりはあるにせよ最終的に資産は増えますよ」という定説について、本を読めば読むほど、そしてまた、オンライン証券での自分の資産の価格変動を見れば見るほど、信じることに抵抗を感じるようになってきている。

やはり、その神話を信じるには、市場の変化が激しすぎ、そして何より投資のスパンが長すぎるのが問題なのだと思う。しかも僕がやっているのは単純なインデックス型の投資信託である。臼田琢美『 これがホントの「投資信託」入門! 』には、投資信託は長期投資には向かない金融商品ではないかとの指摘もあり、いよいよその信憑性が揺らいできているのだ。

その一方で、ある有名投資会社の社長が セミナー で、「セゾン投信のようなバランスファンドにまかせて、後は放置している」と話されているのを聞くと、未来の上下動はわからないのだから、ともかく市場にお金を入れて(上昇のタイミングは一瞬なので、市場にお金は入れておく必要はある)、後は運営のプロに任せておけばよいのではないかという気持ちも持ち上がってくる。このあたりは実に悩ましい。

投資を始めたばかりの僕は、今の状況を静かに見つめながら地道に勉強するほかない。投資タイミングが良かったせいもあって、損をしているわけではないので、この本の後半に書かれていたサイトや政府発表資料などをチビチビ眺めながら、今後の自分の投資との関わり方を決めていければと思う。もちろん投資自体を辞める可能性もある。

今ぼんやりわかっているのは、投資で儲けているというの人は、決して金融工学的に市場の動向を読んで儲けているわけではなく、行動経済学的に投資家心理を上手く読んで儲けているということだ。そうした考えを踏まえると、「このような本を読んだとき、投資家はどのような行動に出るのか?」という心理を先読みして動くという、非常にメタ的というかポスト投資的な動きが要請されている点において、昨今の批評の問題と通じるものがあると感じるのは気のせいだろうか…。

Posted by Syun Osawa at 00:18

2009年08月14日

Aira Mitsukiインストア・イベント

2009年7月25日/15:00−15:40/ISHiMARU SOFT2 7F

Aira嬢の2ndアルバムリリースイベント。

まぁ…いつものことなので、特段変わったことがあるわけじゃないけど、最近どんどんMCが下手になっているように思うのは、気のせいだろうか? 上手く話そうと思っているのか、心のATフィールドが効き過ぎて、それを上手く操作できなくなっているのかはわからないが、何かを喋ろうとして上手くいっていないということだけが伝わってきて、妙な緊張感が漂っているのはいかがなものか(別にいいんですけど^^;)。

…てなネガティブな話はさておき、僕の中でダメだろうと思っていた金髪のAira嬢は、今回凄く可愛く見えた。世間では黒髪Airaが人気らしいが、ビジュアル的にはこれまでで一番いいと思うw

ところで、2ndアルバムは、前作の『Copy』とはかなり雰囲気が変わってきている。正直このアルバムの方向性はよくわからないんだけど、妙なエネルギーというか濃密度があって、そのポテンシャルの高さが好き。

中でも「 BAD trip 」は熱量が高くて、しかもこの曲はライブでもかなりカッコいいのだ。特にAira嬢がこぶしを突き上げるポーズがかなり決まっていて、ぶっちゃけあのポーズをジャケット写真にして欲しかったくらい。前作もだけど、さすがに今回のジャケットはメタ的な意味を含めたとしてもダサいと思うしw

Posted by Syun Osawa at 17:46

2009年08月13日

貧困のない世界を創る

ムハマド・ユヌス/訳:猪熊弘子/2008年/早川書房/四六

貧困のない世界を創る「貧困ビジネス」と聞くと、貧乏人から金をむしりとるやくざなビジネスを連想しがちだが、著者のユヌス氏が行っているビジネスは貧困者を救うためのビジネスである。このビジネスは社会的利益を追求することを目的にした「ソーシャルビジネス」と呼ばれるもので、この理念に基づいて彼が創設したグラミン銀行は2006年にノーベル平和賞を受賞した。

グラミン銀行は通常の銀行が相手にしないような貧困者を「経済の行為者」であると認めて、貸し付け(マイクロクレジット)を行っている。一見すると、これは日本のサラ金のシステムと同じように思えるのだが、サラ金が貸す側の利益追求を目的にしているのに対して、グラミン銀行は貸し付けによって貧困者が自立することを目的としている点が大きく異なる。

僕の中で貧乏人に対する貸し付けは、『ナニワ金融道』の世界みたいに貧乏人をさらに貧乏にするための蟻地獄だと思っていたから、この本を読んで借金に対する少し考え方が変わった。グラミン銀行は貧しい人ほど借金の利率が低くなるように設定されている。貧しい人に自ら資本を持たせることで、彼らの意識を変革し、少しずつ自立への道を歩まそうとしているのだ。そして、女性にターゲットを絞って貸し付けを行っている。男性は自分のためにお金を使うが、女性は家族のためにお金を使うからというのが理由らしい。

これらはとても素晴らしいアイディアに思える。でも、常識的に考えれば果たしてそんなことが本当に可能なのかと、疑問に思うのも当然だろう。ビジネスである以上、黒字を続けていかなければ潰れてしまうわけで、そういう市場の厳しさのなかで、このビジネスを展開するためには経営者にかなりの手腕が要求されるのではないか。

配当金も出ない会社に誰が投資をするのかという疑問に対して、ユヌス氏は「寄付よりいいだろ」と答えている。それで投資家が納得するのかどうかはわからないが、寄付や施しによる貧困の救済があまり好きでない僕にはこの話は同意できる。なぜなら、寄付や施しではそれを受ける側の依存を奨励する形になってしまい、イニシアチブや責任を奪ってしまう危険性があるためだ。ただ、それでも…という気持ちは消えない。

ともかく、グラミン銀行はとても社会的に意義のあることをやっていて、しかもそれがビジネスとして成立している。それはボランティアや寄付とも違っており、ビジネスの成功が社会貢献に繋がるという仕組みになっていることもわかった。

ただし、あくまでもそれはビジネスの輪郭というか概念的な話であり、実際のビジネスの現場ではユヌス氏ら経営陣のマンパワーに依存しているところが大きいように感じる。「ソーシャルビジネス」としての明確な像は、はっきりと掴むことができないままだ。

すべてのビジネスはソーシャルビジネスの考え方で再読み込み可能なのか、それともソーシャルビジネスとして成立できる限られたジャンルのビジネスが存在しているのか、そのへんのこともわからないままだった。

しかしながら、現実的な問題として、現状のビジネスと無償の寄付の間にはあまりに大きな隔たりがあることは事実である。そして、その隔たりを、ソーシャルビジネスが埋める可能性を秘めていることは間違いなさそうだ。

個人的には、ファンドマネージャーへの富の集中などはまったく好ましい事態だとは思っておらず、地球が有限で環境に対する議論が高まっている今の時代、もう少しビジネスは社会環境をよくすることにベクトルを向けてもいいのではないかと思う。それが結果的に自分たちの利益に還ってくるということがシンプルに実現できれば、それが一番いいのだろう。

Posted by Syun Osawa at 00:23

2009年08月11日

ロシア革命アニメーション

2009年6月20日−7月10日/日本/アニメ/UPLINK X

ロシア革命アニメーションプログラムA、Bともに観賞。

戦争と芸術 の絡みで昔からずっと見たくて、今回ようやくその夢がかなった(いくつかはYoutubeですでに見ていたが…)。ただ、観る前に自分でハードルを上げてしまっていたせいか、思ったほどは面白くなかった。

ここでいう「面白さ」とは、トンデモを楽しむという意味での面白さと、プロパガンダ作品の中に宿る芸術性という意味での面白さの両面を指している。前者のほうで楽しめる作品もあったのだが、作品の多くが戦時下のイデオロギーをただ従順にトレースしているだけのように思えたし、後者のほうでも自分たちの芸としてどのように消化するかっていうところの踏み込みが甘いようにに思えた。その点では、エンターテイメントとしてあくまで客を引きつけることを重視してつくられたアメリカのプロパガンダアニメのほうが遥かに優れているように思う。

もちろん「優れている」という表現が、芸術性が高いということを示すのか、プロパガンダの効果が高いということを示すのかで判断が分かれるだろう。それでも、ソヴィエトの作品はどっちつかずで中途半端なものが多いのに対して、アメリカの作品はもともと観客の興味を引きつけるために作られており、今の商業アニメの方針とも大差がない。そして近年では、このスタイルによってつくられた作品の中に芸術性を見ていこうとする動きも多く見られるわけで、そうした意味でもロシア・アヴァンギャルドのような芸術運動の中にプロパガンダの要素を組み込もうとして失敗した作品たちは、すべての意味でアメリカのプロパガンダアニメ作品にボロ負けしているように感じた(これはアニメに限った話である)。

その原因として考えられるのは、アニメの表現手法がすべて(と言っていいかはわからないが)アメリカの影響下にあり、それがスターリンの時代に徹底されたことでロシア・アヴァンギャルドの運動と切り離されてしまったことが挙げられるだろう。そのため、ロシア・アヴァンギャルド風の作品もあくまで「風」であって、絵画や彫刻に起きたような新しい芸術の潮流を引き起こすことはなかったように思われる。

唯一肯定的に捉えてもいいと思うのは、プロパガンダによって表現が制限されるというよりも、プロパガンダであることを前提にすれば何でも監督の好きなように作れたという点である。

資本主義の世界では「売れる/売れない」が前提になっているため、一見自由に見れるが、作れるものはかなり制限されてしまう。だからこそ、ピンク映画とかエロゲームの業界のように、エロを前提にすればある程度の自由が許される場所で新しい表現が生み出されるのであって、そうした意味ではソヴィエトの国策アニメの中にも、そうした幸せな状況はあったのではないかと考えられる。国は違うけど、イシュトヴァーン・オロス上映会&トークショー でも、国営のアニメ制作所に在籍した頃に自由が制限されていたとは語られていなかったし…。

そいう視点で眺めると、今回の作品群の中ではタラソフの作品がエンターテイメント作品として群を抜いて面白かった。この面白さは、たぶんソヴィエトとかプロパガンダとか、ましてや戦争記録画のようなものとはまったく関係がない面白さだと思うし、ソッツアートの文脈に入るのかどうかもわからないので何とも言えないが、ともかく他の作品も見てみたいと思わせる魅力があった。

話は変わるが、今回のイベントは2回参加して、そのうち1回は黒坂圭太氏のトークイベント付きだった。しかも、僕自身待ち望んでいる黒坂氏の新作『緑子』の一部が見れたので、何気にこれが一番の収穫だったかもしれない(音が出てなかったのは残念だが…)。

以下、観賞メモ。


プログラムA

ソヴィエトのおもちゃ

by ジガ・ヴェルトフ/1924年

20年代のアニメってアメリカ以外はどこも似たようなクオリティなんだな。良く言えばウィンザー・マッケイっぽい。当時のカメラ撮影などの技術力も含めて考えれば、当たり前かも。逆に当時のアメリカのアニメは何であんなにクオリティが高かったんだって話になるわな…。あと、ソヴィエトという言葉の持っていた意味は、現在と当時では大きく違っていたんだろうと思う。

用心を怠るな

by ニコライ・ホダターエフ 他/1927年

絵柄はわりかし好きだったんだけど、あまり強く印象に残ってない。国債をネタにしてるところが、プロパガンダとはいえ面白い。国債を買おうっていうプロパガンダなら今でもずっと有効だし。ただ、社会主義革命と国債という組み合わせは、あまり食い合わせがいい感じがしない。

ファシストの軍靴に祖国を踏ませるな

by アレクサンドル・イワーノフ、イワン・イワノフ=ワノー/1941年

1941年といえば独ソ戦が開始された年。ソ連国内ではスターリンによって大粛清が行われた後で、ロシア・アヴァンギャルドから社会主義リアリズムへと移った後に作られた作品ということになるのかな? ディズニーをもろに意識して作られた作品で、模倣とはいえそのクオリティは高い。スターリンもヒトラーもディズイーアニメを愛しており、それが結果としてアニメーション制作の技術力を高めたということであれば、皮肉な話だ。しかし、その一方で芸術的な観点で見た場合、アニメ作品の世界的な平準化が、この時期からすでに起きていたとも言えるかもしれない。

監督の一人であるイワン・イワノフ=ワノーは『 森は生きている 』の監督。『森は〜』が1956年の作品だから、スターリンの大粛清を乗り切って、そのキャリアを積み上げていった数少ない監督なのだろう。

百万長者

by ヴィトールド・ボルジノフスキー、ユーリー・プルィトコフ/1967年

このキャラクターは風刺漫画っぽい。1967年頃のソ連ともなると、もはや僕にはどういう社会状況であったのかを想像することさえ難しいが、1968年となれば日本では学生運動においては重要な年で、最近でも関連本が多数出版されている。で、世界ではベトナム戦争が続いていると…。資本主義に対する不信感が批判精神を持ち、そこからの連帯がまだ可能であった時代に作られていることを考えても…単なる風刺漫画にしか見えんなw

予言者と教訓

by ヴャチェスラフ・コチョノチキン/1967年

67年くらいになるとリミテッドアニメの土壌もできてきて、かなりルーチン的にこの手の作品はつくることができたような気がするのだが、実際のところはどうだったのだろうか? 冷戦時代なので何気にこのあたりのアニメ関連の情報が一番乏しい気がする。

狼に気をつけろ

by エフィム・ガムブルグ/1970年

雰囲気はかなりいわゆるアートアニメ的なつくりになっている。パンフレットにはダーク・プロパガンダと書かれているが、どのへんがプロパガンダなのか全然わからなかった。戦闘員として再教育を受けるというのは、右左関係なくやってることで、それが殺人マシーン的だということだとしても、アニメの世界ではエンタメ的に受け止めてしまうとアリになってしまう。

電化を進めよ

by イワン・アクセンチュク/1972年

題名の通り「電化が進んでるよ」というだけの内容なので、たぶん制作するほうももてあましてるんだろうなと思われる。それだけのお題で映像膨らまそうとするから何だかいびつになるわけで、そういう視点で見るとそのいびつさこそがソヴィエト・プロパガンダの一つの側面とも言えそうな気がしてきたw 電気を引くための鉄塔同士が手を結ぶとバチッと光が通じるくだりとか、ほんとどうでもいいわけで。何というか、意味づけの弱い映像。

射撃場

by ウラジーミル・タラソフ/1979年

全プログラムの中でこれが一番面白かった。1979年の作品なので、さすがにこのレベルの作品であっても、同じ時期に宮崎駿が『ルパン3世 カリオストロの城』を作ってしまっていることもあって、突き抜けた目新しさを感じるということはない。ただし、社会風刺を真正面からやっているアニメ作品は日本にはほとんど存在しないと思われるので、そういう意味では貴重なのかも。アメリカの資本主義を皮肉ってはいるが、ソッツアート的な意味合いも含んでいるのかもしれないな…。


プログラムB

惑星間革命

by ゼノン・コミッサレンコ、ユーリー・メルクーロフ、ニコライ・ホダターエフ/1924年

『オタクアミーゴスの逆襲』で取り上げられていた作品。いろんな手法がごちゃまぜになっていて、どれも微妙なクオリティ。1924年という時代を考えれば、クオリティは仕方ないわけだけど、プロパガンダの手触りが単なる悪口とかそういう子供じみたレベルなので、そこはもう少しロシア文学的な昇華をしてほしい気がした。

レーニンのキノ・プラウダ

by ジガ・ヴェルトフ/1924年

当時は図像が動くってだけで受け入れられたんだろうし、ましてや実在の人物がキャラ化して、そのキャラが動くわけだからかなり高度な消費を要求されているはず。1924年ならこのレベルのプロパガンダでも十分に通用していたのかな? 時代の空気感がわからないので、何とも言えない。

勝利に向かって

by レオニード・アマリリク、ドミートリー・バビチェンコ、ウラジーミル・ポルコヴニコフ/1939年

完全にディズニーの影響下にある。この頃は、アメリカだけでなくドイツでもソ連でもディズニーは消費されていた。そういう意味では、ディズニーは完全に当時で言うところの前衛に立っており、アニメ界では本当に神だったんだろうね。ところで、監督の数が多すぎるのはなぜ?

映画サーカス

by レオニード・アマリリク、オリガ・ホダターエワ/1942年

これはイントロでチャップリンのような司会者が登場する。ナチスのヒトラーに尻尾を振っている国を犬に見立ててバカにしている様子などを描いており、他国から見ればかなり挑発的な内容になっている。ただし、当時この映画は自国内で見られていたのではないかと想像するに、作品の意味はどれほどだったのかはわからない。これもディズニーというかアメリカ的なアニメの手法でつくられている。当時は同じ連合国にいたわけだから、そのへんの技術の輸入はわりとスムーズだったのかな?

ツイスター氏

by アナトーリー・カラノヴィチ/1963年

この作品にはアニメーターとしてノルシュティン氏も参加していたらしい。パンフレットの中でノルシュティン氏は「イデオロギーが優先すると芸術性が食われてしまう場合がほとんどだ」と書いており、この作品への思いも少しはあったのかも。ただ、他の作品と比べても、この作品は表現の点でそれほど凡庸な印象は持たなかった。

株主

by ロマン・ダヴィドフ/1963年

株主をがっつり描いたアニメそのものが、国内外にほとんど存在しないので、そういう意味ではかなり貴重な作品のようにも思える。書籍ではフィクションの作品よりも実用書のほうが多いのに、アニメでは実用書的な作品はほとんど見られない。プロパガンダ作品というのは、実用書的なベクトルにも従属なのかな? …とかいう疑問も少し湧いてきた。

生かされない教訓

by ワレンチン・カラヴァエフ/1971年

結構、展開なんかも上手くて、表現に味があるな…と思ったら、70年代の作品だった。さすがにこのあたりになってくると、ディズニー一辺倒の表現も薄まり、独自のルーチンで作品を仕上げるようになっているためか、面白みが出てくる。

前進せよ、今がその時だ

by ウラジーミル・タラソフ/1977年

タラソフはなかなかいいな。この上映会があるまで全然知らなかった。この作品は『射撃場』とは趣が違って、かなり抽象的なイメージが強い。少し宗教がかかっているようにも見えるし、『アニマトリックス』という短編アニメ集の中のピーター・チョン監督「マトリキュレーテッド」あたりにも似た雰囲気があった。でも、幸福の科学の映画と比べると、宗教的な破壊力はいま一歩といった感じ。あと、これはもはやプロパガンダでもない気がするんだが…w

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 13:43

2009年08月10日

ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序

監督:庵野秀明/2007年/日本/アニメ

ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序新劇場版なるものが公開された当初、「さすがにもうエヴァはいいでしょ…」と思って完全にスルーしていた。先日、知人から「『ヱヴァ破』観た? 凄くよかった! 劇場で観たほうがいいよ!」と言われてその気になり、第一弾の「序」も見ていなかった僕は、急いでGEOでDVDを借りて観ることにした。

ダイジェストやん…。

本当にそのレベルで何も知らなかったのだ。当然『エヴァ』が『ヱヴァ』に変わっていることさえ知らなかった(芸能人の改名やないんやから…)。

そんなわけだから、ハイクオリティなTV版のダイジェストとしか言いようがない。しかも、シンジがレイに言う「笑えばいいと思うよ」でおなじみのシーンまでで終わったってことは、次の「破」はここからの続きということか? つーことは、またダイジェストってこと? でもそれだったら、知人が「凄くよかった!」と言うはずがないな…。

たしかにラストのところでカヲルが登場したり、エヴァの号数が増えてたり、リリスのところが簡単に処理されてたりと、TV版とは違う展開を見せているので、違った話になるのかもしれない。

ともかく謎解き以上に、ドラマの展開がせわしな過ぎて、TV版と劇場版を観たことのある人でないと状況を読み取るのは難しいんではないのかな? 僕もリリスの謎とか、ゼーレの役割とか、ぶっちゃけほとんど覚えていなかった。以前は謎本をちょろっと読んだりして、自分なりの補完計画をしてたんだけど、それさえ忘れてしまったので、今回は作品の輪郭をうっすら思い出したという感じ。

映像のほうでは、メカを中心にセルシェードの3Dで処理されていたところが目に付いた。TV版の頃はそれほど3Dは多用してなかったと思うので、そう考えると今回はダイジェスト的な内容とはいえ、かなり画面に手を加えられていたのかもしれない。特にポイントとなる表情なんかも、丁寧に描き込まれていたように思う。あれもTV版だともう少しわかりやすい表情をしていたような気がする。あと、昔はあまり思わなかったけど、エヴァの造形ってダンバインとかガイバーの路線に近いのかも…。

今回、6年ぶりくらいにエヴァを見ながら、何でこの作品はこんなに流行ったのかを考えていた。もちろん神話や哲学の言葉をちりばめた衒学志向や、謎の部分を多く残した世界観に引きつけられた事は間違いない。しかしエヴァ以降、世界観にそうした含みを持たせた作品(世界観開陳モノと僕は呼んでいる)が数多く登場したが、その多くが成功しなかったことを考えあわせると、多くのライトなファンを魅了したのは別の部分にあると思われる。

早い話が、エンターテイメント作品として優れていたわけだ。特にピンチの作り方が類似商品と比べても圧倒的に上手い。『 未来少年コナン 』に代表される宮崎駿イズムといえばわかりやすいか。絶体絶命のピンチをいかにして潜り抜けるかというあのドキドキ感。エヴァにはそれがある。使徒はメチャメチャ強くて、エヴァは毎回余裕で勝っているわけではないし、必殺技を持っているわけでもない。気を抜くとシンジのナイーブなところとかに引っ張られがちだが、あの絶体絶命を切り抜ける瞬間に湧き上がるスペクタクル感がなければここまでライトなユーザーを巻き込んでのブームにはならなかっただろう。

ところで、本作からは制作がカラーとなっている。この会社は監督の庵野氏が設立した会社らしい。wikiでこの会社の情報を見てみると、この会社には松原秀典氏が所属している。そして、僕の尊敬する田中達之氏までもが所属!そうか、だから漫画が発売されないんだな!…と思ったら、田中達也という人だった。この方は電柱作監として有名な人らしい。

ヱヴァンゲリオン 新劇場版:破 』へつづく。

Posted by Syun Osawa at 01:49

2009年08月08日

世界は感情で動く

マッテオ・モッテルリーニ/訳:泉典子/2009年/紀伊國屋書店

世界は感情で動くいやー、勉強になったな。

フレーミング効果、大数の法則、小数の法則、アンカリング効果、フォールス・コンセンサス効果、ハロー効果…などなど出てくる言葉は難しいが、ようするに人間は何かを意思決定するときに、感情を優先させていることが多いという話だ。そして、感情を優先させることで、将来に対するリスクとリターンの計算を論理的に行うことができず、判断を誤ってしまう。

この話は凄く納得できる。僕自身は、親から情がないと文句を言われるほど冷めた目でしか物を考えることができない人間なのだが、それでも何かを決断するときは、直感に頼って「えいやっ!」と決めている。

例えば僕の投資の話だと、最初の頃はインデックス投資の本を読み漁り、アセットアロケーションなどという気持ちの悪い言葉を真に受けながら、見本として提示されたポートフォリオに忠実に投資をやろうと思っていた。しかし、実際にお金を投資始めてみると、そんな機械的な投資を行っていくことは難しいことに気づく。

日経平均も為替も毎日目まぐるしく動き、ニュースは様々な経済にまつわる情報をたれ流している。そういう状況の中で、単純なドルコスト平均法を実践していたのでは、儲ける機会を逸してしまう可能性もあるし、逆に高値掴みをして損してしまう可能性もあるということに耐えられなくなる。もちろん平均法なのでリスクもリターンもそこそこだから平均なわけだが、もっと積極的な投資を行いたいという感情が抑えられないのだ。

その理由は二つあって、一つはこの本で示されているような行動原理に基づいている。そして、もう一つ。市場に参加している多くの人が感情で動いているわけだから、そうした投資家たちの感情の動きを読むことこそが、投資において一番重要だと考えるようになったからだ。僕はこちらの理由を重要視しており、だからこそ、行動経済学の入門書を読んだのだ。

感情の話に戻る。

この本の中で興味深かったのは、感情に流されている人のほうが精神状態は安定しており、論理的に考えながら不安定な状況を冷静に分析する人のほうが抑うつ気味だと指摘されていた点である。僕も少し抑うつ気味なので、これも凄く納得できた。

精神の不安定を解消するために、精神の安定を与えてくれるものに安易に飛びついてしまう(例えそれがスピリチュアルなものであっても)ことは、人間が備えている防衛本能の一つなのだ。そのように考えれば、生物としての人間が感情で動くのは当然かもしれないし、その感情の原理に基づいて投資を考えていくほうがより現実的だという僕自身の考え方は、それなりに理に適っているようにも思える。

Posted by Syun Osawa at 00:05

2009年08月06日

戦争画の相貌 ― 花岡萬舟連作

2009年6月15日−7月11日/早稲田大学會津八一博物館

戦争画の相貌早稲田って大学の中に博物館があるんだ…さすが。凄いねぇ。

今回の画家については、正直「誰?」という感じだった。購入した図録を見ると、どうやら従軍画家ではないらしい。戦争画に影響を受けて描かれた戦争画といった感じか。展示されている作品のほとんどは1937年〜1939年に描かれている。戦争画が最も隆盛を極めた時期がいつなのか僕にはわからないが、これらの絵が描かれた時期に、戦争画という絵が一つのジャンルとしてはっきり認識されていたことは間違いないだろう。そして、そういう絵を心情的に描きたいと思わせる雰囲気が漂っていたに違いない。

ただ、戦争を描いた絵というだけならば、いつの時代にもある。漫画であれば、今なお多くの漫画家の手によって過去の大戦の様子が描かれている。そうした作品と今回展示されていた作品にどれだけの違いがあるのかというと、リアルタイムであったかどうかという違い以外のものを見つけるのは難しい。目的が日の丸を描くことにあったとするならば、国旗が多く掲げられた絵を描く人など今はほとんどいないので、そういう違いはあるかもしれない。

展示室には横山大観《旭日(国民精神総動員)》が展示されており、これは黄色地に朱色の日の丸を描いたものだった。黄色地をよく見ると、日の丸を中心として放射状に白い線が薄っすらと延びており、日の丸が光を放っているように工夫されている。これなどは日の丸が日本国民の国威発揚のための記号として機能しているように思える。

花岡氏の絵を見る。

他の戦争画で見たような構図の作品が多いのは、おそらく写真から描いているせいだろう。従軍記録画家も実際に見た状況をリアルタイムに描き出すというよりは、写真を誇張して描いていたケースが少なくなかった。ここに戦争画のひとまずの限界を見ているのだが、この話はひとまず置いておこう。構図だけに注目するならば、日清戦争時代の戦争画(浅井忠とか…)やパノラマ絵画のような印象が強い。

最も印象に残ったのは《忠魂永へに闘ふ》という作品だった。戦死した仲間を燃やして、その火を囲んで黙祷する兵士達の姿が描き出されている。この絵に似た作品も見た記憶(忘れた)がかすかに残っているが、他の作品と少し趣が異なるのは煙の中に天にのぼっていく兵士達の姿が描かれていることだ。当時の死生観では、あの世は天にあるのか? とか、どうでもいいことを思ってしまった。

ところでこれらの画は、一般の方からの寄贈らしいのだが、その人のプロフィールを見ると慶応卒とある。どうして慶応ではなく、ライバル校の早稲田に寄贈したんだろう? これも、どうでもいい疑問だな。

(関連)戦争と芸術

Posted by Syun Osawa at 01:32

2009年08月04日

黒い手帖 ― 創価学会「日本占領計画」の全記録

矢野絢也/2009年/講談社/四六

黒い手帖 ― 創価学会「日本占領計画」の全記録福本潤一『 創価学会・公明党「カネと品位」 』に続いて、創価学会の暴露本を読んだ。別に恨みがあるわけでもなんでもない。最近流行の「連帯」というキモめのキーワードを頭に浮かべたとき、1968年の新左翼ももやいもhatenaもニコニコ動画も重要かもしれないが、創価学会も重要だろうということで、彼らが果たしてきた役割についても少しだけ把握しておきたかったのだ。

この本にも福本氏の本と同様に怪しげなことがたくさん書かれていた。言論出版妨害事件、二度にわたる宗門との紛争などは有名だが、公明党のパンフレットは1000万部も刷っている話(しかも有料らしい)とか、規模のでかいエピソードがいろいろ語られていて面白かった。

中でも、僕が小学生の頃から疑問に思っていたことが一つ解決したことが大きかった。それは「何故、公明党は政権与党にこだわり続けるのか?」ということである。

単純に考えれば、そうした行動は権力に擦り寄りたいというコウモリ的な卑しさを与えるだけなのだが、そうするだけの理由があったのだ。この本によると政権与党にいなければ、池田大作氏を参考人招致で国会に呼ばれてしまう可能性があるらしい。だから与党に居続けて、参考人招致をしないように圧力をかけているのだそうな。「ええっ?それだけ?」と軽く腰を抜かしそうになったが、民主が政権を奪取する可能性が高まっている今、公明党が民主との連立も完全に否定していないところを見ると、あながち嘘でもなさそうだ。

これが本当なら、公明党の指名は池田氏を守るための組織になっているということだ。昔から創価学会を支持してきた人はそれで満足なのだろうか? 著者にしても福本氏にしても、カルト教団の信者がマインドコントロールを解かれて我に返ったわけではない。彼らは今でも創価学会を愛しており、今の創価学会のあり方に大きな疑問を持っているからこそ、暴露本めいたものを書いているのだ。

島田裕巳『 創価学会 』で、創価学会が拡大した理由の一つとして、都市に流入した地方労働者の孤独や不安を和らげる相互扶助機関として機能していたことを挙げていたが、今はそういうところからは遠く離れているように思える。また、島田裕巳『 日本の10大新宗教 』によると、新興宗教の場合、教祖の死が一つのターニングポイントになるらしい。池田氏までの三代の指導者を「永遠の指導者」としてしまった創価学会は今後大きな分裂が起こることが予想される。

こうした先行き不透明な組織が、矢野氏や福本氏のような体を張った暴露本に対して真摯に向き合わないのであれば、その末路はこれまでの新興宗教同様にその力を弱める方向以外にはないのかもしれない。で、今の状況を知りたくて2ちゃんねるの創価・公明板をのぞいたら、もはや何が何だかわからなくなっていたw

Posted by Syun Osawa at 00:16

2009年08月02日

岸田劉生展

2009年4月25日−7月5日/損保ジャパン東郷青児美術館

岸田劉生展この展覧会では岸田が22〜23歳の頃に描いた肖像画が多く展示されていた。

肖像画がズラッと並んでいるだけなら、見るほうも描いているほうも飽きてしまいそうなものだが、これが意外と飽きなかった。というのも、一枚一枚微妙に異なるタッチで描いており、カメラのピントを合わせるような感覚で具象画の抽象度をコントロールしているところが面白かったからだ。

師匠が黒田清輝ということもあって、初期の一部の作品は、印象派からの影響を強く受けている。しかし、その後はそうした「〜派」といった西洋からのスタイルを模倣するというよりは、自分のオリジナルを求めるチャレンジを続けていたように思う。特に輪郭線が顕著で、藤田嗣治が西洋画に日本画の主線を取り入れたように、輪郭線をいかに使うかというところで苦心していたのではないか。

ときには朦朧体のような形で輪郭線を浮かび上がらせたり、彩度の強い塗りに細くて濃い輪郭線を重ねてハイパーリアルな画面をつくりだしている。特に後者のほうは教科書などでもよく使われる絵に多く見られる傾向で、岸田劉生の代表的なタッチともなっている。

代表的といえば、娘の麗子を描いた作品がかなり有名だと思うのだが、今回いろいろな発見があった。教科書に載っている麗子より、実物はもう少しほっそりしていて可愛いのだ。ではなぜ岸田は麗子を座敷童女のように描いたのだろうか。

岸田は麗子の絵を数多く描いており、よく見るとこれも少しずつタッチが違う。しかも、タッチだけではなくて造形も違うのだ。最初の頃は普通に描いているのだが、途中からだんだん顔が平べったくなっている。

作品を順に見ていくと《笑う麗子像》あたりからかなり雲行きが怪しくなっている。この変化は中国の妖怪に感化されたものらしく、気がつけば作品名が《野童女》となって麗子の名前すら消えていた。極めつけは二人の麗子を描いた《二人麗子像(童女飾髪図)》だろう。グロテスクだし、妙に悪ふざけなところもあって、このあたりにも岸田の芸術性みたいなものを見た気がした。

ほかにも、光の当て方を師匠の外光派的な乱反射ではなく、脂を塗った静物にスポットライトを当てたような光で肖像画を描いていたりして、マチエールに対する強い思いを感じた。晩年になってもタッチが一定でないところにもそういう思いは表れていると思う。

それにしても、自分の顔描くの好きやな、この人w

Posted by Syun Osawa at 02:13