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2010年03月31日

Ust祭り=エンジョイMIDIマッピング=ローポリ

東浩紀氏のUst祭りに続いて、カルト系トークイベントと有名DJのプレイを生配信するDommuneが始まって以降、Ustのほうでプロ勢力による神祭りが頻繁に起こるようになった。

サカナクションが新譜のリリースイベントをUstで中継しているその裏で、アマチュアの方がYMOのカバーをしている中継に坂本氏が降臨して、アドバイスをするという神掛かった展開もあった(後に高橋氏も参加)。ほかにも村上隆氏がお絵かき配信をはじめたり、報道のほうでもジャーナリストによる討論番組が配信されたりと、ダダ漏れ状況が加速気味。

最近よく思うのは、こういう流れを推し進めれば人は幸せになれるのか? ということで、その点から考えると、たしかに楽しいしありがたいのだが、僕自身は今のところやや懐疑的である。

ところで、Ust&twitterのハッシュタグという新たなコミュニケーションの流れに、ニコ生もすぐさま対応したのには驚いた。30分の配信にハッシュタグを使っている人は多くないけれど、流れをUstに持っていかせない布石を即座に打つところはさすがだと思う。

MIDI Mappingという楽しみ

PCでDJを楽しむNumarkの OMNI CONTROL というコントローラーを買って1ヶ月が経過。これはかなり楽しい。本当は4月に出る Typhoon を買う予定だったのだが、Spin が微妙だったので、既存のものを買うことにしたのだ(この機種は安いわりにスクラッチができるというのは利点ではあるが…)。

そんなわけで、大して調べもせずに直感で買ったもんだから、MIXを作るのなら同じNumarkでも MixMeister Control というものがわかりやすいとか後からいろいろわかってきた。今まで見た中では、4Deckを切り替えながら操作する TR-1 あたりが一番そそられる。

とはいえ、入門編としては OMNI CONTROL だろう。MP3データをいかに楽しく整理するかというトンデモな考えが購入動機というのは、僕の中ではかなりゼロ年代的だと思って勝手に浮かれつつ、 OMNI CONTROL のデフォルトではTraktorのエフェクトまわりのコントローラーの増量。

FilterのコントロールはエフェクトのFilterで対応できる、Pichコントロールは上下スライダとSyncボタンでまかなうということで外して、それらをエフェクト2と3にすることにした(デフォルトは1だけしかコントロールできない)。あと、ジョグダイアルの下にCueボタンが2つ並んでいるのを、CueとCup(再生中にCueの箇所からポン出し)ボタンにした。

これらはMIDI Mappingの設定を変えて実現する。そう難しくない。ただ、ボタンのON/OFFに伴って、ボタンのLEDを点灯させたり消したりする設定には少し苦労した。このMappingはボタンの機能割り当てとは別で、あらかじめボタンに割り当てられたアドレスを変更しなければならないのだが、このアドレスが記載されたものが見つからず、仕方ないので一つ一つアドレスを潰してようやく実現。一度こういうカスタマイズにハマると、さらなるカスタマイズがしたくなるなぁ。

手に入れた本など

窪島誠一郎『無言館 戦没学生「祈りの絵」』(講談社)

波 2010年3月号

川村湊氏と山崎ナオコーラ氏の対談がいい感じ。どっちもどっちな感じの自意識バトルもあり。新「社会派小説」宣言の指す社会って何だろう。

アヌシー 2010の短編入選作品発表

押井守っていつの間に短編作ってたんだ。大山慶氏の『HAND SOAP』や、ひだかしんさく氏の『恋するネズミ』なども入選しているそうで。日本の短編アニメ業界(そんなものがあるのか?w)って、カナダのNFBみたいな組織だったものがないのによく入選している。応募作のうちどのくらいが日本のものなのかがわからないけれど、なかなか優秀なんだね。

オランダ発のローポリゴン短編アニメ「Pivot」

すげー! 話はいたってシンプル。さらに演出が冴えまくっていて、ローポリゴンなのが、いい風に作用している。短編アニメはどんどんすごいのが出てくるなぁ。

まんが・条例のできるまで(1992年作品)

たけくまブログより。昔、『サルまん』に掲載されたものらしい。法律の是非はともかくとして、漫画が面白い。このクオリティの漫画が今回の騒動ではほとんど出てないってのが寂しいよね。

東京古書組合90周年記念シンポジウムを企画して

うーむ。何かに答えているようで何にも答えていない気が…。デジタル化の余波が古書店にまで及んでいる事実に対して、「ピンチをチャンスに考えろ!」というのはいいけれど、じゃあ何するのよ? という話は何もない。そもそも古書には骨董品としての価値があり、その市場は今後も残り続けるだろう。

問題は資料として古書を購入していた人がデジタル化によってごっそりいなくなってしまうことだろう。「依然として残る紙媒体の特性への慣れから、紙を志向する人間が残るはずだ。古書業界はそこに入り込める。」というのも変だ。なぜなら古書業界はもうそこに入り込んでいるからだ。そして、そこから人が抜け出ていくことを止める妙案がないことが問題だろう。

「いまどき左翼過激派」の系譜

ブラック・ブロック、ウォンブルスなどの反グローバリズム団体、シー・シェパードなどの環境保護団体、他にも動物解放戦線(ALF)など様々な組織があるらしい。ネタなのかマジなのかさえわからないんだが、もちろんみんな大真面目にやっているのだろう。こうなると、もはや右派と左派で分けることが何を意味するのかさえもわからなくなるね。

ベーシックインカム7つの長所

山森亮『ベーシックインカム入門』もまだ読んでいないので、アウトラインさえ掴んでいるとは言い難いのだが、ベーシックインカムの最大の長所は「不公平感がなくなる」ということだと思う。逆に言えば、ベーシックインカムになれば幸せになれるとか、財政的に上手くいくとかそういうことは一切ない、何となくそんな気がする。

Posted by Syun Osawa at 01:55

2010年03月30日

ベンハムの独楽

小島達矢/2010年/新潮社/四六

ベンハムの独楽何でこの小説を読もうと思ったのか、まったく思い出せないのだが、Amazonのレビューが悪くなかったことが最後に僕の背中を押したことは間違いない。帯分に「カラフルな9つの連環」と書かれているように、趣向も筋立ても全く異なった9つの話が入った短編集だった。

一見、全然バラバラに話が展開されていながら、どこか少しずつ繋がっているというところが、この作品のよさでもあるのだろう。ただまぁ、小説を大して読まない僕のような素人には、三木卓『 路地 』くらいの繋がりでやってくれないと、少し物足りなく感じられる。全体的に薄味というか、味はいろいろ混ざってるんだけど、それを一つの料理として脳が認知してくれないといった感じ。ようするに、もやもやしたまま読み終えたというわけだ。

SFあり、ミステリーあり、恋愛ありと、いろいろなジャンルを軽やかに横断しつつ、それを強引に一つにつなぎ合わせるのではなく、余韻だけでその場にある空気を統合している。その連環は、ゼロ年代の空気系アニメを連想させるような手つきで繋がれており、そこに屈託はない(いい意味で)。僕はそういう屈託のなさみたいなものがあまり得意ではないので、このもやもや感は、きっとそういうところから来ているのだと思う。

個別の作品の中にはいくつか好きなものもあって、最初の作品などは、妙に乙一チックで僕好みだった。そのほかにも大学生の話(これが一番面白かった)では、ブレイクダンスが登場する。ダンスバトルのシーンで「エアトラックス」とか「エアトーマス」みたいな技の名前が出てくる小説に出会ったのは今回が初めてだったので、これはなかなか新鮮だった。

Posted by Syun Osawa at 01:29

2010年03月27日

束芋展 ― 断面の世代

2009年12月11日−2010年3月3日/横浜美術館

束芋展 ― 断面の世代この展覧会を見に行ってかなり時間が経ってしまって、かなり記憶が曖昧になっているが、メモを見つつ感想など。束芋の作品を見たことはこれまでに何度かあったが、まとまった作品展に行ったのは今回が初めてだった。

束芋という女性は、僕の中では、現代美術に日本のアニメを導入したもう一人の現代美術家ということになっている(別の一人はもちろん村上隆)。村上隆が商業アニメなのに対して、彼女のそれは商業アニメでもアブストラクトアニメでもなく、何と言うか自主制作アニメのノリに近い。さらに、本展覧会のサブタイトルに「断面の世代」とあるように、団塊ジュニア世代から見た素朴な日本の風景が映し出されており、世代も近く、絵的にも好みなため、僕にとって束芋作品は共感の回路しか開かれていないのだ。それがあまりにも露骨に予想できたから、これまでも見に行っていなかったともいえる。

今回、がっつり彼女の作品を見て、当初の想像通りすっかり共感の回路が開かれたことは間違いない。彼女の作品と僕のシンクロ率は高い。ただ、今回一番感銘を受けたところは、そういうサプリメント的な良さとは別のところにあった。それは、彼女が団塊ジュニア世代をしっかりと引き受けているように思えたことだ。彼女は「断面の世代」の「小さな物語への執着」を明確に口にしている。僕は小さな物語しかない現実に対して半ば諦念のようなものを抱いており、そうした諦念込みの日常の風景を描かれても、共感はしてもそれだけだ…と思っていたのだが、彼女はそこに執着することで新しい扉を開こうとしている。強いねぇ。

アニメーションの技法に関しても、かなり手が込んでいて、どの作品も飽きさせない。エンターテイメントとしても十分にいける楽しさと、小さな社会風刺に溢れていて、純粋なアニメファンとしても楽しめた。空間を使ったアニメーションがこれだけ楽しいものになるのなら、日本の商業アニメ界も3Dアニメ化なんかで満足していないで、アニメをどんどんインスタレーション化したらどうか。DVDも下火になってきた今、「体験するアニメ」といった現場感を増していったほうが日本のアニメは生き残るんじゃないかとか(アニメの現場間の話は、前田真宏氏のイベントの感想 でも書いた)、余計なことを思うくらい、束芋氏の作品はアニメファンも取り込む力があったように思う。

Posted by Syun Osawa at 01:16

2010年03月25日

g2 vol.3

青木理、立花隆、石井光太 他/2010年/講談社/A5

g2 vol.3同書の刊行記念シンポジウム に行ったときときに購入。シンポジウムのテーマが「デジタル出版の未来」だったこともあって、同書の特集と内容がモロ被りだったが、本のほうもクリス・アンダーソンの『フリー』が示したデジタルコンテンツの状況をコンパクトに知るにはまずまずの内容だったと思う。ただ、状況を俯瞰することだけの目的なら『週刊ダイヤモンド 2010年3月13日号』のほうがわかりやすい。

正直なところ、状況を俯瞰したところで、何がどうなるというわけでもないし、僕自身、「売り上げがどれだけ減るか?」「業界で働く人の数がどれだけ減るか?」という生々しい話しか今のところ興味がない。というのも、デジタル化が進んでも、既存のコンテンツとデジタルコンテンツでは同じ価格帯にならないし、流通を含めコンテンツと顧客との間にあった仕事がどんどん間引かれていくわけだから、制作コストが削減される分、同様に人も削減される。つまり、どうあがいても商品の点数の増大と反比例して業界の規模自体はしぼんでいくしかないのだ。

こういう状況でテンション上げろって無理だよねw

この本には、そんなテンションの下がる特集以上にテンションの下がるノンフィクションが2本掲載されていた(しかし、こちらはかなり面白い!)。以下に感想を書いておく。あと、感想は特に書かないが、立花隆氏の小沢一郎に関する記事は、フリージャーナリストやブログ論壇とは真逆の小沢悪玉論を展開していてなかなか興味深かった。

青木理「ルポ鳥取連続不審死事件 誘蛾灯」

スナックのホステスの周りで連続して起きた謎の不審死を追ったルポ。たいして綺麗でもなく、小太りの中年女性が次々と男を落としていくのだが、その相手というのが秋葉原事件の加藤ほどわかりやすいものではない。最初が読売新聞の記者、次がイケメン警官、やり手の車のディーラーと、「なぜこの人が?」という人が、彼女にハマっていく。ハマる動機も様々だ。

このニュースは埼玉で起きた婚活殺人事件ほど話題にならなかったが、その理由はこの被害者のわかりにくさにあったのではないかと思う。逆に言えば、テレビで取り上げられるものはわかりやすいものだけ、時代を象徴しているような事件(秋葉事件とか)だけなのかもしれない。本当は、その恣意性の裏側には曖昧な死がたくさんあって、現代はむしろその曖昧性、不確実性のほうが増大している気さえするのだが、どうなんだろうか…。

石井光太「銃を持った子どもたち」

死と言えば、こちらはもっと強烈だった。ウガンダのゲリラ組織・神の抵抗軍によって誘拐された村の子ども達が、洗脳され、少年・少女兵として戦地へ送り込まれる状況を追ったルポなのだが、内容が過酷すぎて読んでいて辛かった。

神の抵抗軍では、誘拐した子ども達を完全なゲリラ兵に仕立てるために自分の親を殺させる。しかも拒否すれば、自分が殺される。こうした残虐行為が日常的に行われているという。また、部隊から逃げ出さないようにするため、体の一部を傷つけるという行為も行われているようだ。

ルポに登場した3人の少女のうち、1人は唇を切断され、もう1人は鼻と耳を切られた。本の中に鼻と耳を切られた少女の写真が掲載されていたが、かなりグロい。その少女は、運よく政府軍の厚生施設に入ることになったのだが、その容姿では生きていけないと感じ、結局施設を逃げ出して再びゲリラ組織に戻ってしまう。そして、彼女はスパイ扱いされてゲリラ組織に殺されてしまった。

世の中には、「良いことと悪いことはみんな同じ割合で半分ずつ」だと信じている幸せ者もいるが、そんなことは絶対にないなと、このルポを見てつくづく感じた。石井氏はこういう極限の人たちのルポを結構書いているようなので、いくつか彼の本を読んでみようと思う。

Posted by Syun Osawa at 01:50

2010年03月20日

第8回 インディーズアニメフェスタ

2010年3月7日/13:30−16:00/三鷹市芸術文化センター

第8回 インディーズアニメフェスタ4年ぶり のインディーズアニメフェスタ。

ゼロ年代後半にYoutubeとかニコニコ動画が出てきて、膨大な量の映像コンテンツに押し流されたのは商業アニメだけではなかった、自主制作アニメも例外ではなった、と僕は勝手に思っていた。そして、もはや自主制作アニメとか誰もつくっておらず、ニコニコ動画にMADとかを上げてるんだろうと思っていたのだが、大きな誤解だったようだ。

irodoriさんの「眼鏡」、三原三千夫「おかしなホテル」と凄いのがいきなり続いて、しばらくの間、自主制作家系のアニメを見ていなかったことを後悔した。今も良作の自主制作アニメってたくさん作られているのだね。クオリティ云々の話は、「日本におけるインディーズとは何か?」とか「海外の短編アニメと学生の卒業制作を比べるのはどうか?」とかいろいろあって、それでも日本の自主制作アニメのクオリティが上がり続けているという神話があるのだとすれば、それはソフトウェアの性能向上と表現技法のメソッド化が押し上げているのだろう(あとは、その人のマンパワーが大きいとか)。

とはいえ、今は大学の中にアニメーション学科が多く設置されているわけで、そうしたところからの底上げは無視できないはずなのだ。ところが、表現技法のメソッド化とは別の文脈で、つまり海外の短編アニメの根底に流れる社会風刺的なアプローチが、日本の作品にはあまり見られないという問題は依然残されている。

この問題は、先日の 東工大のシンポジウム で議論されていた「日本の未成熟問題」とつながるのかもしれない(この議論では、そうした日本の作品を肯定的に捉えている)。あとは、自主制作アニメ上映会の「現場感」とか。このあたりの思いは、下のスタジオぽぷりさんの作品の感想メモのところでちょっとだけ書いた。

面倒くさい話をつらつら書いたが、ようするに自主制作アニメ見るのって楽しいね、というだけの話である。(・∀・)イイ・アクセス もまだまだ現役でサイト運営されているので(これはほんと凄い!)、僕もしばらく見ていなかった自主制作アニメの山を少しずつ切り崩していこう。自主制作アニメ(つか短編アニメ)に特化したwiki系のサイトとかあると便利なんだけどねぇ…。

以下、感想メモ。

眼鏡

by irodori

セルシェードな3Dアニメ。画面のクオリティ高っ! 内容は、あずまんが系(この比喩がすでに古臭い気もするが)のショートショート。眼鏡を賭けたがらない女の子をフックにして、ストーリーが展開される、いわゆるテンドンもの。商業アニメを意識していた作りになっていて、インディーズだからこそ違った視点で…とういよりは、インディーズでも商業アニメと同じようなクオリティで作品が作れるぜ!っていう意思が見え隠れしている感じ。

おかしなホテル

by 三原三千夫

クオリティの高さに吹いた。バイオハザードみたいな斜め上からの視野でホテルの1本の廊下を映している。そこにカメラを固定して、方々のドアから人が出たり入ったり、そのうち動物や、戦車も出てきて…という形で盛り上がっていく作品。イシュトヴァーン・オロス の作品っぽいか。いや、他に思い浮かんだんだけど、名前が出てこない…。僕はこの作品に投票した。家に帰ってからネットで調べたら、プロのアニメーターの方だった。プロの人もっと参加しないかな…。

眠らせ先生!

by 野中晶史

大学の講義を受けているときに襲う睡魔。その睡魔との闘いを描いた作品。へたうまっぽい(といっても、かなり上手い)手描き2Dアニメ。おっさんでも、属性に関係なくシンプルに楽しめる、この手の作品は楽しい。

向ヶ丘千里はただ見つめていたのだった

by 植草航

乖離する私。私。私。…といった感じ。詩的というか、中二病的な世界に触れて、ようやくインディーズアニメを実感した。といっても悪い意味ではなく、僕はこの手の作品がわりと好きなのだ。東工大のシンポジウム でも語られていたように、可愛さによって無関連化される、もしくは未成熟であるがゆえにクールな作品。

GO FLASH!!

by ミヤモトヨシノリ

富岡聡の遺伝子は着実に芽を出し育っているのか(知らんけど)。証明写真機を舞台にしたギャグストーリー。短編アニメは詩的な作品で雰囲気を作るか、ギャグでサックリ笑わせるかといった手法が、表現としては向いてるのかもね。

輝きの川

by 大桃洋祐

…とか思ってたら、ちゃんと物語つくってるアニメが登場。絵本のような世界で丁寧に切り絵でアニメーションを組み立てている。主人公のミルが追い求めたのは天の川? 絵本の世界とかまったく知らないまま「絵本のような」と書いたけど、絵本って何か教訓めいたものがあるのかな? ともかく、教訓なきファンタジー。とにかく美しい。

7お手本

by 中村武

この人の作品は、かなり前に観た記憶がある(たしか、大阪のプラネット映画祭だったと思う)。最後のクレジット見たら新作だったようだ。なるほど、シリーズ化してるのか…。シンプルな線を使用したモノクロのアニメーション。

The Light of Life

by 柴田大平

Showreelっぽい作品。ストーリーのない映像美で見せる作品を、そのままShowreelと書いてしまう僕の感性のなさ…w いつも思うけど、3Dでの光の表現とかどうやってるんだろうなぁ。AE使ったことないから、どこからどこまでが何の力によるものかとか、ちょっと気になる。

熱血宇宙人

by 山元隼一

島本和彦系の熱血アニメ。これもガッチリ手描きで作品つくっていて、しかも面白い。こういうの見るとDoGAのアニメコンテストとかまた行きたいなぁ…とか思う。

毒忍者ちゃん

by スタジオぽぷり

スタジオぽぷり作品を見ると、何か妙に安心するのは僕だけだろうか。ぶっちゃけ、僕の個人史の中では、好きな日本のインディーズアニメの系譜として受け入れている作品世界だったりする(FLASHだったら青木さんとか)。そこはかとなく漂うインディーズ感というか、インディーズだからこそできる笑いというか、そういう未達成感の逆利用みたいなところが、東工大のシンポ の話と直結する感じで好きなのだ。東工大のシンポジウムの二日目には(こちらは不参加、ニコニコ動画を見た)、「日本には「可愛い」以外の未成熟はないのか?」という話が出ていて、そこでは何も出ずに終わってしまったが、この系譜はある意味で別の形の未成熟と思う。未成熟であるがゆえに笑えるというところも含めて。

あとは現場感。そのとき、劇場に足を運んだ人だけが共有できる言葉を組み込んでいる。ゼロ年代には、商業アニメでもご当地アニメ的なものが盛り上がったが、視聴者に対してはあくまで均一に作品が提供されていた。しかし、今後は場所によって、または見る階層によって異なったイメージが提供されてくるという自体も起こってくるのかもしれない。昔、緒方直人がテレビモニターのCMで、「番組見るなら、(放送局名)」というのを、各放送局ごとにつくっていたが、あれをさらにハイブリッドした形のものが立ち上がってくる予感めいたものがあるが、どうだろうか…。話が完璧に逸れた。

内容は、くの一が毒団子を使ってどんどん殺すっていう話。

Face

by 中嶋涼子

お洒落な感じ。トランプっぽさが印象に残った。背景を完全に白にしたハイコントラストな映像を見ると、何故だかいつも昔『ひらけ! ポンキッキ』でやってたカンフーの映像でを思い出してしまう。

春の詩

by 梶原保奈美

犬と羊が出てきて、優しい感じの作品。

麦わら少女とへんな家

by 野山映

シェードが神。昔、『IKKI』の付録でついていた松本太洋のシェードとか(神風動画が作ったんだっけか)、こういうので普通にストーリーもの見る日は来るのだろうか。ぜひ見たい。

落ち葉掃きの人

by 宮島由布子

猫の話。コマ撮りらしいということが最初にわかって、しかも落ち葉を風に吹かせよる表現を多用していたので、その表現のことばっかり気になってしまった。コマ撮りって大変そうだけど、確実に一枚一枚映すことで具体的に前へ進んでいる達成感みたいなものがいいのだろうか。僕には到底できない芸当。

フミコの告白

by 石田祐康

おなじみ「フミコの告白」。圧倒的なスピード感が気持ちいい。コンテストでも1位になった模様。今後、彼はアニメーターになって 中村豊氏のような神動画 を連発しまくるのだろうか。楽しみである。

つか、だったら逆に、中村豊氏のような人がインディーズアニメを作ったらどうなるのか問題(つまり作画力で勝負じゃ問題)、みたいなものを思いつつも、海外短編アニメも好きな僕としては、海外ではそうであってもひたすらに言われるのは脚本、ストーリーの力が優先されているという問題も別に残る(つまり作画力ではないという問題)。個人的には、その両者のベクトルは相関係数が低いからこそ別々に楽しめるわけなので、投資の対象としては今のままでも悪くないじゃん、とも思っているわけだが、実際のところどうなのかは知らん。

Posted by Syun Osawa at 02:33

2010年03月18日

PR誌読み漁り(12月−3月前半あたりの中から)

PR誌を読むのが好きで、会社の昼休みにちょくちょく読んでいる。その理由は出版界のトレンド(いろいろな層の)をザッと知るのに最適だからだ。しかも無料で。これまで、PR誌のちょっとした感想は無駄話に書いてきたが、最近書いておらず、メモが溜まってきたので、忘却録のために放出。

熱風 2009年12月号

宮崎駿氏のインタビューが載っていた。おじいちゃんの薀蓄って感じなんですが、僕が信者ゆえかスッと心に入ってくる。宮崎氏の創作の着想ってほとんど身近なところからしか出発しない。隣の席の人を観察するところから普遍性を獲得しているのがとても素晴らしい。あと、何気に民主党支持してるのね。

書標 2010年1月号

マックス・フライシャーの息子であるリチャード・フライシャーが書いた『マックス・フライシャー アニメーションの天才変革者』という本が出たらしく、リチャード・フライシャーが文章を寄せていた。…と思ったら、その代理として翻訳者の・田栗美奈子さんが著者の名前で文章を寄せていた。そんなのありかw

特集の「個人全集を読む」もなかなかいい。全集って金持ちのお年寄りが、物欲を満たすために買うものだと思っていたので(つまり、読むものではなく置物として…)、それをちゃんと読んでいこうという試みは素敵。個人全集ってたくさん出ているし、それこそ一人では到底読むことは不可能。だからこそ、みんなの力を結集して何とかしてやろうという発想は、とても今風だ。集合知はこういうところでこそ生かされるべきだと思う。

図書 2010年1月号

原研哉氏の「柳宗理の薬缶」が面白かった。「デザインとはスタイリングではない。(中略)デザインとは生み出すだけの思想ではなく、物を介して暮らしや環境の本質を考える生活者の思想でもある。したがって、作ると同様に、気づくということのなかにもデザインの本意がある。」と書かれていて、僕のデザインに対する意識を少し変えようと思った。

波 2010年1月号

法月綸太郎氏による東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』の書評「東浩紀と「家系」の問題」が熱かった。ぶっちゃけ何書いてるかあまりよくわからなかったけど、東氏の志向の全体像を彼の他の著作なども絡めながら小説について論じている。枚数的にも書評の枠を飛び越えた内容。あと、村上春樹氏のエッセイもあり。村上氏の小説以外の文章って、読みやすくて結構好きだったりする。

熱風 2010年1月号

映画ではなく映画館の話。僕もよく利用するバルト9の話やアバターの3D映像の話などが載っていた。古い映画館が淘汰されているのは悲しいが、シネコンは確実に素晴らしい市長環境を提供してくれているのも事実。映画館も人の集まる場という捉えかたをすれば、まだまだ価値の高いスペースになる可能性を秘めていると思う。

scripta no.14

上野千鶴子氏の「「父の娘」のミソジニー」は面白かった。東浩紀氏の『クォンタム・ファミリーズ』を同時期に読んでいたこともあって、妙な関係性を感じてしまった。あと、密かに始まった速水健朗の「幻となった東京オリンピックと都市計画」という連載もなかなか面白い。

UP 2010年1月号

佐藤康宏氏の「日本美術史不案内」という連載で、差別に踏み込んだ表現としての漫画ネタが扱われていた。特に四肢の無い体を持つ登場人物の活動そのものが、差別を強烈に照射している。戦後漫画の成熟した時期にはそういう作品が続出したということらしい。

ちくま 2010年2月号

大江健三郎、成田龍一、小森陽一による鼎談「加藤周一が考え続けてきたこと」が掲載されていた。左翼臭をうんぬんする人もいるかもしれないが、3月5日の東工大シンポと比べると、このあたりの人たちは凄いちゃんとしてるなぁ。

波 2010年2月号

吉野仁氏が書かれた小島達矢『ベンハムの独楽』の書評を読むと、なかなか面白そう。読もう。佐藤健太郎氏が自著解説で書かれた「ゼロリスク志向」と「2010年問題」もなかなかツボった。ようするに人は副作用を受けたくないというリスク回避の潔癖症が強すぎるという話。

SCREAM 2010年2月号

Massive Attackのインタビューで新婦が出ることを知る。あと、The Blue Heartsのベスト盤。最近、メジャーレーベルはベスト盤商法以外でまともな収益が上げられているのだろうか? 心配だ。

本 2010年2月号

このPR誌は東浩紀氏の「一般意志2.0」という連載を追いかけている。今のところ大した進展はなし。あと、昨今当人がテレビなどで話されている内容とかなり重なっていて、展開的にはグッとくるところは少ない。もう少ししたら熱い方向へグラインドしてくるのだろうか。期待。

図書 2010年2月号

この号は僕の好きなエッセイが結構あった。浦雅春「チェーホフの愛について」とか荒このみ「マルコムXからオバマへ」、大江健三郎「困難な時のための」など。大江のエッセイは親交のあったサイードとの思い出話を書いていてなかなか貴重。

一番面白いのは、小野耕世「小野佐世男のジャワ」で、漫画家だった父親の従軍記録部隊の話などを書いている。戦争と芸術 関連の本として、僕的にはかなり重要な記事なので、書籍になる前に連載を追うことにしよう。

ランティエ 2010年3月号

今野敏氏と押井守氏の対談あり。今野氏の小説に「パトレイバー」の特車二課が登場しているらしい。しかも、ニヒルな後藤も当人として登場しているそうな。あんまり話題になっていないが、すごいメディアミックスだなw

Posted by Syun Osawa at 00:42

2010年03月17日

4℃が!=短編アニメ充=その他、ここ2か月くらいのメモ

ここ最近は、かなり面白い短編アニメを見ていると思う。メディア芸術祭でもかなり見たし、インディーズアニメフェスタとかでも見てる。もちろんネットでも。でもそれらが統一的に語られる場はない。商業アニメ、短編アニメ(アート系)、短編アニメ(ギャグ系)、短編アニメ(オールディーズ系)、短編アニメ(同人系)で見てる人が全然違ってたりするのは、やっぱり寂しい気がする。特に僕は短編好きなので、そういう場があれば僕の居場所としてもいい感じなんだけど…。

宝島社から快調にリリースされているDVDも買ってはいるが積まれたままになっていて、本だけでなく映像のほうも全然追えずに埋もれてきた今日この頃。いつものごとく、ここ最近のニュースを適当にメモしておく。

MutafukazがStudio4℃によってアニメ化されるらしい

マジでかっ!w 最初にパイロット版を見たのが2002年の11月。当時書いたブログのエントリ を見ると、今やパクリ騒動ですっかり(笑)的な存在になってしまった感のあるPLEYMOと合わせて感想を書いている。

まさかこれが日本でアニメ化されるとはね…。つか、この当時のフランスは、ミクスチャーバンドのPLEYMOなんかがシーンを牽引していたわけで、まさかこの後に、エレクトロブームといった違った文脈でフランス産の音楽がブレイクするとは思わなかったなぁ。

神短編!『ロゴラマ』が凄い!

米国アカデミー賞2010 短編アニメーション賞受賞作品。昨年の『つみきのいえ』とは全然経路の違うブラックな作品(どちらも社会的なメッセージが奥底に見え隠れしているという点で言えば、共通しているところも多いのかもしれないが…)。

消費社会の行き過ぎを、過剰な広告とキャラ化を推し進めるところで批判するという手法は、ゼロ年代の決断主義の超え方としてはまっとうなのではないだろうか? 社会的なメッセージも強いし。

『老女と死神』

アントニオ・バンデラスがプロデュースした米国アカデミー賞2010短編アニメーション賞ノミネーション作品。「アントニオ・バンデラスが…」ってわざわざ書かれているが、それが感じられる部分はほとんどない。まぁ…普通の3Dアニメ。内容はシンプルで結構面白い。

個人制作であることに度肝を抜かれる映像作品

ひろぶろより。CGの恐ろしいところは、画面を実写で撮るか、CGにするかが、すべてコストの面で決定されているてんだと思う。つまり、実写とCG映像は、もうずっと置き換え可能なものになってしまっているのである。

FLASHは生き残れるか?

AppleとAdobeでケンカするってどういうことなの? とか思いつつも、Adobeのやり方がどうも気にいらねーとか、FLASHやりすぎとか、いろいろあるんだろうね。個人的にはFLASHは存在し続けて欲しい。

エクセルのオートシェイプを使って精巧なガンダムを描く

ビビった! ペイント使って、詳細な人物画描いてる動画もヤバい。何が凄いって、まさに根気だよね。ひたすらチマチマと何時間もかけてこれをやり続けられる意志の強さ…僕は最近これがなくなってきたので、ただただ感心してしまう。

活動漫画館10周年になりましたっ!

のんちゃんを初めて見たときの衝撃は忘れません。そして、今見ても変わらず凄いまま。のんちゃんのアニメ化は、ぶっちゃけあってもいいのではないかと思う。

ケインズvsハイエクの経済ラップ合戦

経済のことはよくわからないけど、かなり面白いラップのバトル。日本にもきっとこういうリリックを書いてる人いるんだろうね、日の目を見ないだけで。家族とか友達とか、そういうテーマじゃないものも聞いてみたいが、ヒップホップをほとんど聴かない僕には、その手がかりすらつかめないのであった。

AKB48の「喜び組」問題について

サイゾーは熱い記事書くなぁw AKBの人気ってここ数年で急速に伸びた感じだけど、この記事に登場するスポンサーやプロデューサーって、低迷している時期から資金を提供し続けている人とその橋渡しをする人だったりするわけで、少なくともリスクはとっている。そのリターンが…ってことになるとまぁ…ファンには殺されそうだけど「あるかも…」と思える話だ。マドンナが好きな僕としてはザ・芸能界って感じで何てことはない。

元AKB48研究生のブログが続々

先日、プライムニュースで「新村社会特集」を見たら、ネットの登場で人間関係がずっとひも付きになってしまうという議論をやっていた。アイドルもまさにこのことが言えて、引退しても引退じゃないような状況がずっと続く事になる。

もちろんネットから離れればリセットという事になるのだが、微妙な立場の人が切り捨てられないで残っていくというのは、ロングテールのモデルで考えれば悪くない。ただし、アイドルヲタ的には裾野が広がりすぎて全く終えないという状況になっているわけだが…。

つかさ、アイドルのブログだけを超網羅して、その日アップされた中で面白い記事だけをチョイスするようなサイト誰か作ってくれないかなぁ…。誰と誰がどうしたという人間関係の見取り図なんかもついているんだったら、有料でもいいくらいでw

『ポピュラーサイエンス』誌、137年分を無料公開!

素晴らしい。素晴らしいがゆえに、恐ろしいよ…。

白亜紀末の恐竜絶滅は隕石説で決着

直径約10〜15kmの隕石が秒速20kmで地表に衝突したらしく、そのエネルギーは広島型原爆の約10億倍とのこと。そんな威力で衝撃を受けても地球の円形は保たれていることが一番凄いと思う。ボコッて穴があいてもおかしくなさそうなのに、地下ではなく地表にエネルギーが拡散するというのが面白い。

必要なのは「日本人を雇ってくれる企業」

ぶっちゃけそうだと思う。この一点で突破する勢力が現れたら、めっちゃ求心力を持つんだろうなぁ。

若者男子の失業率が10%の大台へ

さらに大量のフリーターを抱えているからね、この世代って。ここまで明確な差が出てくると、お年寄りが支えている共産党とかは、弱者救済とか言っているにもかかわらず、かなり矛盾を抱えた組織になってしまっている気がする。

あの有名なウェブサービスやサイトのクローンが作成できる

もうこれが当たり前の時代なんだなぁ。シュミレーショニズム的な意味づけがメタな言説ではすでになくなっていることくらいは僕にもわかっていたが、この手のあからさまな感じが次のウェブサービスを生んでいくという事態は、果たして多くの人間に幸せをもたらすのだろうか。

「AndroidでFlashサクサク動きます」とAppleに皮肉?

iPhoneやiPadはFLASHが使えないらしく、FLASHユーザーにとってはかなりの痛手だったのかもしれないけれど、Androidは使えるらしい。こういう変なアーキテクトは必ずユーザーの要望で押し切られるので、いずれはiPhoneでもFLASHが使える日が来るのかも。

ジョブズCEOが「前言を撤回」した実例6選

ここから得られる教訓は、「自分の過去の発言に縛られるのはバカ」ということだろう。そこにリテラシーがあるかどうかはわからないが。

米国『4ちゃん』管理人が語る「匿名性コミュニティ」

アメリカンの2ちゃん系サイトの話。facebookなどの台頭で、アメリカでは日本以上に匿名コミュニティの風当たりが強くなっている模様。日本の場合は、mixiなんかでもかなりの部分が匿名だったりするし、ニコニコ動画関連を見るかぎり、依然として2ちゃんねるとベッタリな関係が残っている。twitterがそれを打ち破れるか? という期待が日本には蔓延しているが、使っている実感としては、ある時を境にしてものすごい勢いで廃れていくような気がする。

一巻で完結している面白いライトノベル

こんな素敵なエントリをあげる人がいたとは! まったくもって、僕向きであるw

ツイッターはハイチを救えない

ツイッターって案外しょぼいと個人的には思っている。僕がそう考える一番の理由は、検索機能が極めて貧弱だからである。

アルファブロガー・アワード2009 結果発表!

わりとよくチェックするところもあるが、知らないのも多い。Cotorichさんがノミネートされてたのは笑ったw ケツダンポトフ のそらのさんという方は、この前Ustreamで上杉隆氏と池田信夫氏の対談の場にいた人か。かなり有名なアルファーブロガーだったのか。

21世紀の広告媒体としては終わっている新聞業界

これは熱いなぁ。2001年から2009年の調査で、新聞やテレビなど既存の大手メディアは悲惨なくらいに収益を落としている。ネットを使った下層メディアが増大したために、テレビを見る視聴者の数もぐっと減っている(見ているのは、昔から見ている年寄りだけ)。こうしたゼロ年代の風景の中で、カリスマのヒーロー像をつくることなんてかなり不可能に近いよねぇ。

とりあえずアンケートというのは考えもの

アンケートと言えば、フジテレビが放送している『めざましテレビ』のアンケートはいつも胡散臭い。ニセ科学とは言わないまでも、演出として統計情報が用いられているところにあの会社のリテラシー度合いが透けて見える。

逆に、ニコ生のアンケート機能は結構好き。特にリスナーの年齢を聞くアンケートは、放送する生主によってかなり世代差が出て興味深い。あと、大抵の場合、30代以上が半数という驚くべき結果も無視できない。ニコニコ動画やニコ生は学生のイメージが強いが、実際にはそうでもないのである。

Posted by Syun Osawa at 00:59

2010年03月16日

メディア芸術祭 SIGGRAPH 2009

2010年2月14日/10:15−12:15/国立新美術館

SIGGRAPHやアヌシーの映像を流してくれるだけでありがたいので、文句を言うつもりは全然ないのだが、短編作品をプログラムなしに連続上映する問題 というのがあって、それが毎度気になっていた。今回は、事前に ブログ にタイトルだけは載っていた(後は自分で調べろってことねw)ので、作品を後で思い出すための手助けにはなったと思う。それにしても、全26作品を切れ目なく見続けるというのは、頭の切り替えが結構大変で、普通の長編を1本見るよりはるかに疲れる作業だ(慣れたけど)。

SIGGRAPHの映像作品はハイエンドな秀作が多く、内容もテレビCMから個人制作のアニメーションまでバラエティに富んでいる。その一方で、3D映像の技術的な変革に関しては、以前よりは高密度、高画質な映像になっているものの、2Dが3Dになったり、そこからポリゴンが一気に複雑化したときのようなイノベーションは感じられなかった。2Dのアニメがそうであるように、技術の進歩に伴って進化し続けた3D映像も、もはや来るところまで来てしまったのかもしれない。

以下、印象に残った作品だけ、感想メモ。

Project: Alpha

by The Animation Workshop Denmark/デンマーク

学生賞受賞。「猿の惑星」のパロっぽく、猿が乗ったロケットが不時着した先に猿がいて、これといった障壁もなく交尾した…という話。人間と猿では戦いになったのに、猿同士なら…とも見れるし、所詮サルと見ることもできる。

Alma

by Rodrigo Blaas、Cecile Hokes/スペイン

審査員名誉賞受賞。ある雑貨屋の中に置かれた一体の人形に惹かれる少年。店の中に入って人形に触れた瞬間…という一発ネタ。少年も人形も3Dなので、等価に扱われている感じとか、入れかえ可能な感じとかが今風。でも可愛らしいキャラクターだけに、ちょっと怖い。

French Roast

by The Pumpkin Factory/フランス

最優秀作品賞受賞。以前、診た記憶があるが、どこで見たんだっけ? ある紳士がカフェにいて、ホームレスの男性にチップを渡さなかった。その紳士が店を出ようとしたら、財布を忘れていたことに気づき、店から出れなくなった。そこへ酔っ払いの警察官までやってくる。絶体絶命の状況で、お金をスッと差し出してくれたのは先ほど追い払ったホームレスだったというオチ。

この作品はよくできている。台詞がほとんどないので、どこの国の人にも伝わるわかりやすさもあるし、海外の短編アニメ賞ではわりと重きを置かれている社会風刺的なアプローチもしっかりしている。

Window Pains

by Paul Tillery/アメリカ

シェードがめっちゃいい。8bitっぽいイントロからアートワークが凄くいい感じ。パソコンと格闘する中年男性の悲哀。鳴り止まない内線。

Unbelievable Four

by Sukwon Shin、In Pyo Hong/アメリカ

共和党の政治家が3Dキャラクターになって歌っている。これもきっと社会風刺の強い作品なんだろうが、歌詞の意味がよくわからなかったので、何だかほのぼのと見てしまった。アメリカではこの手のわかりやすい共和党批判ものって、リベラルな若者の間でバカ受けすのかな? どのモデルもよく似てる。

Who's Gonna Save My Soul

by Chris Milk/アメリカ

実写と3Dアニメの融合。その融合自体には目新しさはないが、CGを用いる箇所へのアプローチの仕方が結構新鮮な感じだった。歌と雰囲気がかなりマッチしていてグッときたのだが、日本語訳がなかったのであまり深く意味が理解できず。日本語訳が出るのを待つしかない。

Pigeon: Impossible

by Lucas Martel/アメリカ

ミサイルの発射スイッチの入ったトランクにハトが閉じ込められるという展開。ドタバタ加減といい、ピンチの演出といい、エンターテイメントの要素が際立っていて普通に楽しい作品。このクオリティの短編というのは、日本ではほとんどお目にかからないが、海外では快調に作られ続けているわけね。こういうものをたくさん集めて、流すような番組ができると最高なんだが…。

THE SPINE

by Chris Landreth/カナダ

なんかアカデミー短編アニメ賞をとった『Ryan』っぽいなぁ…と思ったら、NFBの作品だった。というか、『Ryan』を作った人だった。残念な事に、この作品も字幕がないのであまりよくわからなかった。でも、3Dを使った会話劇は、顔の表情だけかなり綿密にパターン化すれば、ショートコンテンツとしてかなり有利だということは理解した。日本でもそういう手法を生かした作品が出てくるのかもしれない。

PARTLY CLOUDY

by Peter Sohn(Pixarfilm)/アメリカ

動物の子どもを運ぶコウノトリの話。子どもは雲(神様?)からコウノトリに手渡され、それをコウノトリが親元へ運んでいく。一匹のコウノトリはワニの子どもや電気ナマズの子どもなど凶暴な動物の子どもばかりを運ぶ羽目になり、どんどんボロボロになっていく。それがテンドン(同じパターンを繰り返して笑いをとる手法)で行われつつ、最後にどうなるの? という展開だった。ディズニー作品だけあって、さすがにそつがないつくり。短編の上手さはまさに伝統芸ですな。

Posted by Syun Osawa at 01:59

2010年03月15日

専務の犬 ― 高橋留美子傑作集

高橋留美子/1999年/小学館/A5

専務の犬 ― 高橋留美子傑作集高橋留美子の短編集。上手いとしか言いようがない。

短編集はこれまでにも何冊も出ているが、この短編集は『ビッグコミック・オリジナル』に掲載された作品を中心にまとめられたもの。つまり、『犬夜叉』のような広い男女のターゲットへ向けて書かれた作品ではなく、中年男性にメインターゲットを絞って描かれている。

これを読もうと思ったきっかけは、山本おさむ氏が『 マンガの創り方 』という本(この本も神!)の中で、大人向けの短編「Pの悲劇」を徹底解剖していたことだ。集合住宅に暮らす普通のサラリーマン家庭で起こるちょっとしたドタバタをいかに面白く描いているか、その面白さがいかに練られたものであるかを山本氏は『 マンガの創り方 』の中で解説されていた。

今回の短編集でも、物語の多くは普通のサラリーマン家庭で、ストーリーも大きな起伏があるわけではない。にもかかわらず、日常のありふれたできごとの中から、ドラマになりそうな部分を上手く拾い上げて起伏をつくっている。その導きがあまりにも達者で、いつの間にかるーみっくわーるどに引き込まれてしまうのだ。もちろん、大人向けの作品なので、わかり易すぎないオチにはしていないものの、それでも高橋節というか、読後にちょっとだけ暖かい気持ちが残る残響みたいなものに彼女の世界の奥深さを感じる。この感覚を批評的に読み取って、母性のディストピアなどとは呼びたくないよね。

面白くないことが一つあるとすれば、書かれた時期が古いこともあるが、この短編集で描かれている中流サラリーマンって、父親の年収で言ったら700万円から1500万くらいで、今の世の中で考えると決して中流ではなくなってしまっているという悲しいやね…。

Posted by Syun Osawa at 01:21

2010年03月13日

電刃見本市場−サヲリ、再来電

2010年3月6日/19:30−20:30/タワーレコード渋谷

DENPAとSaori@destinyの合同リリースイベント。DENPAって、僕の中ではアニソンとかニコニコ動画で流行の曲をハードコアな感じで流して、コスプレした男女が踊る…みたいな印象だったんだけど、必ずしもハードコアってわけではないらしい。特に後半のDJを聴いているかぎりでは、アニソン系ダンパのノリもあるようだ。なるほど。

イベントは、DENPAのDJ → Saoriのライブ → DENPAのDJという流れで進行。DENPAの音は前半と後半で少し毛色が違っていて、どちらかというと前半のほうが僕好みな感じ。特に可憐Girl's「Over the Future」のリミックスはなかなか熱かった( これ かな?)。他にもニコニコ関連の曲は結構知っていたし、アニソンのほうもそれなりにわかる。だから「知ってる曲で盛り上がる」といった回路で考えれば、DENPAの良さも見えてくるのかもしれない。今回はそれがちょっとわかりにくかった。

というのも今回、DENPAのDJのときは、なぜかフロアの照明が明るくされていて、微妙に乗り切れない雰囲気だったからだ。そこはちょっと可哀想だったかも。もちろん、客が地蔵なのが悪いという批判もあるだろうが、僕も含めて初見だって多いわけだし、照明の明暗とか、イベントの進行とかって、実は盛り上がりをかなり左右するし、そういうユーザビリティの部分ってもう少し細かく調整したほうがいいのではないかと思った。これはタワレコの話ね。

そして、『G2』VOL.3発売記念シンポジウム でホリエモンらの話を聞いて思ったことでもある。どういう話かというと、CDはほとんどiTunesなどに置き換わっていくのだから、CDショップに人を呼び込むためには、来ること自体のプレミア感を高めるしかない。それを大きく牽引するのがライブなどのインストアイベントなわけだが、そこに来ている客の目的は、曲を聴くことだったり、踊ることだったり、握手することだったり、会話することだったり、同じ趣味の友達を見つることだったりと様々であるから、多様化したそれぞれのニーズに対して、それに見合った細やかな配慮をしていかなければいけない…というものだ。

Saori@destinyに関しては、最近ちょっとイベントに連続で行きすぎててwメタ意識が高まってしまってる自分の問題が大きいので省略(何か一つは残るものが欲しいよね…みたいな)。前にも書いたけど、衣装はかなりいい感じ。あと、気になるリップシンクの話は、秋葉のインストア とか バレンタイン・イベント のところで書いたからいいか。こっちも省略。

リップシンクで思い出したが、可憐Girl'sは、おはスタで「 MY WINGS 」も「 Over The Future 」で生歌でパフォーマンスしている。当たり前なのかもしれないが、これはちょっと感動する。昔のSPEEDも生歌のときはかなり迫力あったし、やっぱ上手いと感動するよね…という話がしたいわけではない。ライブ感こそが商品価値であるのならば、上手かろうが下手だろうが、ライブ感を感じられる手段をとったほうがいいという話である(つまり下手でも関係ない)。それが握手会だというのなら、僕は同意したくないが、握手会やツーショットチェキというプレミアにそういう側面があることも事実だ。

Posted by Syun Osawa at 00:13

2010年03月12日

10歳からの相対性理論 ― アインシュタインがひらいた道

都筑卓司/1984年/講談社/新書

10歳からの相対性理論 ― アインシュタインがひらいた道10歳にこれ読ますかw

普通に「E=MC^2」とか出てくるけど、宙博 で高度な質問をしてた小学生とかは普通にこれ読むんだろうなぁ。10歳と書かれてあったから他の積読の相対性理論本よりは簡単だろうと思って読み始めたら、案外僕のレベルにピッタリの内容の本だった。

この本では、相対性理論などの学問的な内容はアウトラインをなぞる程度に留められており、アインシュタインの半生とその当時の世の中の状況のことが中心に書かれている。この時点でタイトルに若干偽りがある気がしないでもないが、アインシュタインの半生をwikipediaより深く知ることができたし、相対性理論などの超ザックリとしたアウトラインを復習することもできたので、僕への導入本としてはかなりいい感じだった。

アインシュタインの半生を描き出す際、著者の政治性ゆえか戦争との関わりについて多く言及されていた。その中で面白かったのは、アインシュタインが一般相対性理論を発表した頃、世界では第一次世界大戦の真っ最中であったにもかかわらず、敵国・味方国の区別無しに多くの研究者がこの理論に夢中になっていたことだ。

そして、第一次世界大戦後まもなくして、敵国であったはずのイギリスの日食観測隊によってその理論が確かめられたことにより、彼の名声は爆発的に広がり、世界各地の大学から誘いを受けることになる。このように、戦争などのイデオロギーよりも学問のほうが優先されるところが、自然科学系人たちの面白いところだと思う(今だったらKYということになるのだろうが…)。他にも、ボーアとの相対論 VS 量子論のやり取りもわかりやすく解説されていて、面白かった。これなんて、未だに人文系の人が書くエッセイで比喩としてよく用いられている気がするなぁ。

Posted by Syun Osawa at 01:17

2010年03月11日

『G2』VOL.3発売記念シンポジウム「デジタル出版の未来」

2010年3月6日/17:00−18:45/三省堂 神保町店

登壇者は、弁護士・村瀬拓男氏、電子出版社社長・萩野正昭氏、堀江貴文氏、ジャーナリスト・石井光太氏。前に行ったG2のシンポジウム では応答する側だった石井氏は、今回は完全に司会に徹されていた。

この日は、昨日行った東工大シンポジウム の二日目があったのだが、どうせ誰かがYoutubeかニコニコ動画に上げるだろうと思って、講談社のノンフィクション誌『G2』のシンポジウムへ。「デジタル出版の未来」という個人的な関心も高い領域だったこともあって、なかなか面白い話が聞けた(出版界にとっては、面白くない話だが…)。

特に印象に残った話が二つあった。

一つは、弁護士・村瀬拓男氏の話で、国会図書館がアメリカに負けじとデジタル化をすすめており、日本の書籍もデジタル化の波に決して抗えないという話。あり得ない話だと思うが、もしも国会図書館でスキャニングしたデータを地方の図書館を通じて貸し出すとなれば、地方の図書館に買い上げてもらうことで成立していた零細専門書の市場は崩壊するし、ベストセラーの小説も大量に貸し出されてしまうことになる。こんな破壊的なことはさすがにしないだろうが、図書館が最近便利になりすぎていることを考えると(かなり利用させてもらっているが)、出版界を取り巻く困難さはkindleやiPadだけじゃないんだなと実感。

村瀬氏は『熱風 2010年2月号』のグーグル特集にも寄稿していて、そこでは、こうした変化の流れはできるだけゆるやかなほうがいいと書いていた。というのも、もしも、今ある書籍の大部分がデジタル書籍に置き換わったら、収益は半減し、大部分の人が職を失うことになるからだ。出版業界にいる人達の懸念のほとんどはこの点に集約されているといっても過言ではないだろう。ぶっちゃけ情報の共有とか、イノベーションとかよりも我が身のことが気にかかるのは当然である。

よく肯定論者が音楽業界のことを例に挙げるが、宇多田ヒカル「Flavor Of Life」がギネス認定されるくらいのダウンロード数を叩き出しても、音楽業界はやはり斜陽のままである。大手CDショップが苦しんでいるが、書店も同じ苦しみを背負うことになることは目に見えている。

もう一つ、印象的だった話は堀江氏の話で、上の話ともつながる。「だったらどうすればいいか?」ということについて、ホリエモン堀江氏は書店は人の集まる場としての意味が一番重要になると語っていた。自身も小さな書店に出資しているそうで、そこで一番大きな収益を得られるのはやはりセミナーだったそうだ。

僕はこの考え方に完全に同意する。これは、CDショップでも同じなのだが、人が集まるための口実として売り物があるという発想の転換が迫られているのだと思う。例えば、本屋の大部分をコーヒーショップに変えてしまうというのも手だろう。そして、客は店員にコーヒーと読みたい本を注文するのである。さらに、階ごとにイベントスペースが設置され、いつも何かしらのイベントが催されている。店に流れる音楽は、オリジナルのラジオになり、そこでは本を紹介するオリジナルの番組がエンドレスで放送されている。つまり、「その場にいる時間」それ自体にお金が支払われるようにする仕組みで、本はそのオマケ(ライブのグッズ販売みたいなもの)という位置づけに近づいていくわけだ。

途中から僕の妄想になったが、堀江氏は自分の価値を利用して、メルマガを始め、すでに数千の顧客を獲得しているという。このあたりのビジネスに対する感覚というのは素晴らしいと思う。また、この前、ロフトプラスワンでやった東浩紀氏らとのイベントは、堀江氏の有料チャンネル内で放送していた。ustreamで流すのではなく、有料で囲い込んでいる、しかもニコニコ動画でやっている。どれが成功するかはわからないが、今はそうやってハイブリッドにやっていくしかないと、堀江氏は話していて、商売に対する感覚はさすがだなと思った。

デジタル出版の感想ではなく、出版社と書店に関する妄想だな…。

デジタル出版で僕が唯一気に食わないのは、それらの市場を占有しようとしている会社がすべて海外の企業だということだ。これは悲しい。今後、日本にも投入される予定のiPadはエロをやらないらしいので、日本の企業は同系の商品をエロありで推し進めたら、それなりに成功するのではないかとも思う。というのも、iPadの大きさは、電車で何かを読むにはウザいくらいの大きさだが、家でこっそりアイドルのグラビアを見たり、エロ漫画を読んだりするにはちょうどいい大きさだからだ。iPadにできることは、iPhoneでやればいいというユーザーは少なくないが、この点だけはiPadのほうがいいと思うユーザーは多いだろう。ただし男性にかぎる。

Posted by Syun Osawa at 00:18

2010年03月10日

国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」

2010年3月5日/18:00−22:00/東京工業大学 大岡山キャンパス

国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」サブタイトルは「もう一つの日本学−批評、社会学、文化研究」。登壇者は、東浩紀(東京工業大学)、クッキ・チュー(シンガポール国立大学)、ジョナサン・エイブル(ペンシルバニア州立大学)、ヘザー・ボーウェン=ストライク(ロヨラ大学)、シュテフィ・リヒター(ライプツィヒ大学)、大塚英志(神戸芸術工科大学)、宮台真司(首都大学東京)、毛利嘉孝(東京藝術大学)といった面々。

去年の東工大シンポジウム に引き続き参加。去年は収容人員600名の会場に1000人以上の人が集まったが、今回はustreamで中継をしているということもあって、後ろのほうは席が空いていた。ustreamはかなり素晴らしいツールだけど、現場が満員にならないのでは、熱気という意味ではちょっと寂しい感じ。特にこの手のシンポジウムは音楽イベントと違ってライブ感を感じるのも難しいわけだから、ustreamをやるんなら来ないわなぁ…。

とはいえ、今回の僕の目的は、東、宮台、大塚の三人が揃った場面に立ち会うこと(つまりライブ感w)。これは現場のほうにいたほうが記憶にも残るだろうと思ったわけだ。特に大塚氏と東氏は『 リアルのゆくえ 』で微妙な対立関係を残していたので、きっと論プロも見れるに違いないと楽しみにしていた。残念ながら東×大塚では大きなバトルはなかったが、想定外のところで東×毛利のバトルが起きた。こちらは東氏とカルスタの人たちとの昔からの因縁?で、わずかではあるが論プロ的な盛り上がりを楽しむことができてよかった。

このバトルは、前半のシンポの最後に毛利氏が軽く東氏を批判したのがきっかけ。そして、休憩を挟んだ後に東氏の反論、毛利氏の応答という展開だった。毛利氏の批判、東氏の反論まではの内容は、東氏とカルスタの人達との間で交わされてきたありふれた内容だったが、その後の毛利氏の応答はなかなか新鮮だった。それは、日本人が日本で物を考えたとしても、自然と西欧的なものは含まれてしまうというもので、それは大塚氏の西欧が発見した日本に日本人が合わせる話とかもつながっている。

そして、このやり取りを聞きながら、『 ハウルの動く城 』のキャンペーンでフランスに行った宮崎駿氏が似たような話をしていたことを思い出していた。それは、生まれたときから欧米の作品を見て育っているんだから、作品の中に西欧的なものが含まれるのは当然だ…というもの。宮崎氏の世代からしてそうなんだから、僕とかその下の世代に至っては、欧米なのかアジアなのかアフリカなのか、それすらわからないような大きな文化(これをグローバルというの?)を世界同時的に受容してしまっているという状況なのだろうし、それをインターネットが後押ししていることは間違いない。

そのように考えれば、今回のシンポジウムの「オタク」が日本固有のものや歴史性、政治性といったひも付きではなくなり、社会と無関連化して受容されているという説明には納得がいく。また、無関連化しているがゆえに「クール」であるとうい外国の研究者の指摘もその通りだろう。

ようするにこれは、「柔道」が「JUDO」になったことと同じ話だろう。

柔道が持っていた日本人の精神性などは薄まり、スポーツとしてのJUDOの面白さが各国で共有されるようになる。しかし、それはひも付きの「柔道」ではなく、国際化された「JUDO」なのだ。東浩紀氏の名前が世界に広がっているのだとすれば、それは「オタク」ではなく「OTAKU」を説明した本だったから世界的に伝播したのではないのだろうか。

このオタクの国際化の話は、カラオケやコスプレといったサブカテゴリ的な文化が実はかなり大きな役割を担っていると思う。そして、そうした双方向性こそがオタクの国際化深く関わっているはずだし、OTAKUというメンタリティを宿した人格形成に大きく寄与しているとも思うのだが、今回のシンポジウムではこの点についての言及はなかった。残念。

思ったことをだらだら書いていたらまた長くなってしまったw

ここまでは、オタクがOTAKUになった話というのは、昔から「当然そうだよね」と思っていたことである。上で新鮮だったと書いたのは、それとは違った視点で展開された「OTAKUの政治性」の話のほうである(僕がカルスタをまったく知らなかったこともあるのだが…)。シンポジウムの後半の議論の中で、毛利氏やその他の外国人の研究者が述べていた「OTAKUの政治性」というのは、無関連化したOTAKU的な作品は各国で受容される際に、再び政治性を持つという話だ。

大塚英志氏はロシア・アヴァンギャルドと絡めてこの点に言及していたが、第二次世界大戦時に、枢軸国側、連合国側ともに戦争プロパガンダの映像としてアニメーションを使用していたことからも、政治性を持つという事は十分に考えられる。美術の世界でも、横山大観をはじめとする大御所たちが、朝日、富士、桜などがシンプルな図像で繰り返し描いて、日本人のイメージを補強したことも似たような話だろう。無関連化しているがゆえに、政治性と結びつきやすくなった状態にある。そのため柔道においても、柔道着に国旗が刺繍された瞬間に日本の柔道ではなくなり、各国の政治性を帯びてしまうのだ。

このあたりの話は、無関連化の次に来る話でもあるし、戦争と芸術 を追いかけている僕にとっても関心の高い領域なので、あまり左翼臭を漂わせることなく、OTAKUの主体形成と政治性についての研究が進んでいってくれたらいいなぁと思った。

Posted by Syun Osawa at 01:16

2010年03月07日

AURA ― 魔竜院光牙最後の闘い

田中ロミオ/2008年/小学館/文庫

AURA ― 魔竜院光牙最後の闘いうーん、ダメだった。頑張ってみたんだけど。

以前、『 人類は衰退しました 』を読んで、「ああ…僕はもうこういう空気系の雰囲気をただ楽しむことはできないんだな…」なんて、自分の老いを感じたりもしたわけだから、そこでやめときゃよかったのかもしれない。とはいえ、学生時代にいくつかのエロゲをやっていた身としては、「それでも田中ロミオなら!ロミオなら何とかしてくれる!」みたいな甘えがなかなか消えないのも事実。前情報では、ハルヒっぽいということだったし、批評家の評価も悪くなかったので、『 人類は衰退しました 』よりはいけるだろうと、安易な気持ちで読み始めたのだ。

読後の率直な気持ちとしては、ちょっと納得できないかな。

話は学園モノで、リア充 VS 妄想戦士のコミュニケーションバトル(自意識バトル?)もの。それを魔法がある世界のようなフックをかけつつ、しかし妄想戦士の抱くそうした世界は妄想にすぎず、現実から逃避しているあなたがそこにいるだけです、という冷めた視線も同時に提供される。

このライトノベルを読んでいる読者の多くは、少なからずオタク属性の何かしらのタグがついている人たちだろうから、ファンタジーの世界に対する愛も他の人たちよりも強いと思う。そういう人たちへ向けて、歪んだ鏡で「これはあなたたちの物語でもあります」と読者を照射するというのは、手法としてはアリでも、その歪ませ方にはかなり違和感を感じてしまった。

中学時代に妄想にふける属性の人間(オタクの演出としてはアリだとは思うが)だった主人公が、高校デビューのために別の回路(普通の高校生になる道)を開こうとしているために、内言がどこか冷めて分析的(メタ的)なものになっている。そこまではいい。

問題は、「なぜほかのオタクたちがその回路を開いていないと思うのか?」という点だ。自分は高校デビューの際にそこに気づいた。しかし君達は気づいていない。この関係性に僕は違和感を感じたのである。また、オタクという属性にまつわる話が、自意識バトルのモチーフになるというのは、どこか80年代から90年代初頭あたりまでの「いじめ克服物語」をベタに裏書きしているようで、何とも言い難い気分でもあった。

ところで、Amazonのレビューを見ると、みんな絶賛しているようなので、『 人類は衰退しました 』のときと同様、読めてないのは僕のほうだったようだ。ああ、僕の感性が死んでいく…。

Posted by Syun Osawa at 02:21

2010年03月05日

きみにしか聞こえない CALLING YOU

乙一/2001年/集英社/文庫

きみにしか聞こえない CALLING YOU乙一って今、何してるんだろう?

数年前に、乙一の作品が次々と映画化される謎のバブルがあったが、小説はかなり長い間書いてないんじゃ…と思って、Wikipediaを見てビックリ! 本名の安達寛高名義で映画監督をしたり、脚本を書いたりしているそうな。しかも、先日見た『 ホッタラケの島 〜遥と魔法の鏡〜 』の脚本まで担当していた。この映画の感想で、快調に失敗したとか書いちゃったよw

あの映画に乙一らしさあったかなぁ? 僕が彼の作品で好きなところは、トリックやら感情の動かし方やらに引きの力があるのに、シンプルでアッサリした読み心地を残していて、その癖のなさゆえに、物語が僕の感情の内側にスッと入り込んでくる、その感覚が好きなのだ。そういう部分が『 ホッタラケの島 〜遥と魔法の鏡〜 』になかったわけでもないのだろうけど、うーむ。

乙一作品では『 夏と花火と私の死体 』、『 失われる物語 』、『 GOTH 』あたりが好きだったから、死体とか殺人事件とかが出てこなかったのがイマイチだと感じた原因なのかも。

で、今回読んだ『きみにしか聞こえない CALLING YOU』の話。残念なことに3話中2話が『 失われる物語 』に収録されていた話だった。しかも、未読だった「華歌」が一番微妙という…。そういや、乙一の短編は僕的に当たり外れの多い人でもあったな。

とはいえ、「Calling You」は数年ぶりに読み返したが、ネタばれした上でも面白い内容だった。主人公の一人が死んだ後にもストーリーが続くというモチーフは『 夏と花火と私の死体 』にもあるものの、本作のほうがより技巧的になっていて上手い。「傷−KIZ/KIDS−」は、口元に痣のあったシホの痣をアサトが引き受けた後、健気で優しかったシホが姿をくらましたシーンがとても印象に残った(こういうところに彼の作品の魅力があると思う)。

この2本は後に映画化されたらしい。短編として面白いとはいえ、映画化するほどの話だとは思わなかったので、映画の内容がちょっとだけ気になった。あと、個人的な願望としては、普通にまた小説を書いてほしいなぁ(『GOTH』の続編みたいなトリッキーなのではなく)。

Posted by Syun Osawa at 01:09

2010年03月04日

老人賭博

松尾スズキ/2010年/文藝春秋/四六判

老人賭博芥川賞の候補作になってちょっと目立っていたこととか、ページ数が少なそうだったこととか、目の前にたまたまあったとか、そういうことがいろいろ重なって読むことになった。大人計画周辺を全スルーしていた僕の、初の松尾スズキ体験である。

ぶっちゃけ、まじぐだ(「マジでぐだぐだ」の略)だった。冒頭で冴えない主人公が整形して男前になったので、山田玲司の『Bバージン』のような流れなのかと思ったら、整形に関するビフォー・アフターで話を引っ張るという風でもなかった(冷めた独白の根拠になっていたのかもしれないが)。

で、「その掴みは何だったんだ?」と思っているうちに、話はぐいぐい展開していって、いつの間にか整体師が映画関係者に。こういう行き当たりばったり風に進む演繹的なストーリー展開は結構好き。しかも、ところどころ挿入されているギャグが結構面白くて、例えば30代の男がバク転するとバカに見えるというくだりは、かなり笑った。バク転した男のキャラクターの立たせ方とか、その後の崩しかたとか、笑わせるための持って行きかたとか、さすがだなと思うところがちょくちょくあった(ほんとちょっとしたところが面白のよw)。

そんな風に微笑ましく読んでいたのは前半まで。後半はギャグの冴えもなくなり、ストーリーの山場となる賭けのくだりも微妙で、最初に書いたようにぐだぐだになっていった。この小説の後半の盛り上げかたって、もしかしたら映画だったらそれなりになったのかもしれない。映像があって、役者さんが面白く演じれば、「わいわいがやがや」した場の雰囲気なんかもよく出ただろうし、小関がNGを連発するくだりも、だんカット割が細かくなり、前半に作り上げたキャラクター達がどんどん交差していくという展開で盛り上がったことだろう。

でもこれは小説なのだ。文章をただ追っている身としては、そうした映像で生える部分より、主演のベテラン俳優・小関がグラビアアイドル・海に手渡した手紙の中身のほうが気になるのである。普通のライトコメディなら、そこに書かれた手紙の内容はベタに泣かせどころのはずで、僕もそれを期待していただけに残念だった。ただ、そうしなかったところが松尾クオリティということなのかもしれないが…。

Posted by Syun Osawa at 00:32

2010年03月03日

メディア芸術祭シンポジウム「メディアとは? 芸術とは?」

2010年2月14日/13:30−15:00/国立新美術館

岡崎乾二郎、水越伸、森達也

これまで薄ぼんやりと濁されてきた「メディアアートとは何ぞや?」という問いに、美術家の岡崎氏が一つの定義を与えようと試みたシンポジウム。そのため、実作を通じた創造行為としてのアートについて語るというよりは、アートと人の間にあるメディアに焦点を当てた話が中心だった。

岡崎氏の話によると、メディアアートはそもそもジャンルが確定できないために、カテゴライズ(絵画部門、版画部門、彫刻部門というように)できないという。つまり何でもありの状態になっている。そうした状況を打開する一つの案として、メディア批判が含まれた作品こそがメディアアートではないか、と話されていた。

なるほど、たしかにそうかもしれない。アート作品が人へ伝わる流れは、

(1)実作業(メディウム)→(2)社会化(メディア)→(3)作品を見る

というようになっており、今は(2)の領域が拡大している。作者が(1)の作業だけで作品との関わりを終えてしまうと、(2)を操作する者によって作者の意に沿わないような変な意味づけをされたりしてしまう。しかし、これまでは作者は(1)のみに従事するものであると考えられており、そのため(2)に関与できなかった。そこで、(2)の二次過程を操作したいと考える作家が現れた。

コクトー、コルビジェ、エリオット、デュシャンなど二次過程そのものを創造行為にしたアーティストは、このことに自覚的な作家であったが、彼らの作品ですら、さらに社会化されるというループが起きているのが今日の状況である。特にネットの状況は過酷で、最初からデータとして作られたものにはオリジナルが存在しないし(絵画だったり、文学館にある自筆原稿だったり)、ぶっちゃけネット上で表現されているものはすべてメディアアートになってしまう。

そのため、メディアアートという枠組みでアートを括弧付けするのであれば、そうしたメディア状況に自覚的である必要があるし、メディア批判それ自体がメディアアートであると言えるのではないか。よって、「メディアによって如何にメディアを批判するか?」という問いを、作品内部に取り込んだものが「狭義」のメディアアートだろうということがシンポジウムの中では語られていた。

メディアアートを考えれば考えるほど、芸術家は芸術から遠くなり、アーキテクチャが芸術に近づいていってしまう。この流れは避けられないにしても、その一方で、作品の一回性というか、オリジナルへ意志を完全に捨て去ってしまうのは、それはそれで少し寂しい。この「オリジナルなきアート」の創造性の根拠として、シンポジウムの中では「制作の痕跡をいかにして残すか?」ということを話されていた。しょーもない例でその話を接木すれば、ジブリのメイキングDVDのようなものだったり、古くはジャクソン・ポロックのアクション・ペイントの映像だったりも、オリジナルの痕跡を残すものとして受け取ることができるかもしれない。

とはいえ、そこにオリジナルの根拠を求めてしまうと、今度はメイキング映像だけをパロディにする人間も現れるだろう。「『千と千尋の神隠し』はこうやってできました!」という制作過程(メイキング)について嘘の映像を作ってパロディにすることだって可能だし、またそうすることで、簡単にその痕跡させえも取り込まれてしまうわけだ。

さらに問題なこともある。

森達也氏が、「メディアと近接することで、アートの持っているわかりづらさが、情報化されメディアを通しで伝達される過程で縮減され、単純化される危険性がある」と指摘されていた。ドキュメンタリーの世界でもその流れは止められないらしく、ボイスオーバーの多用が目立つという。メディアの持つ「わかりやすさ」という特性と、アートの持つ「わかりづらさ」という特性がどう融合されていくのか。これも大きな課題の一つなのだろう。

とはいえ、アメリカのシリコンバレーで起こったIT革命は、芸術的なアーキテクチャと金儲けを同時に達成したわけだし、村上隆氏がゼロ年代前夜に展開したスーパーフラットも、一見相反するものをハイブリットに融合させて成功したのだ。加速度的に複雑化する社会の中で、アーティストがIT企業家のようなソリューションを起こす領域も同時に拡大していると考えれば、メディアアートは今後さらに期待値を高めていくだろう。そしてそのことは、メディア芸術祭の作品の応募者数、入場者数の増加が端的に物語っている。

…とまあ、このような取り止めのない話を書きつつ、こうした議論全体を通して僕が一番「ヤバい!」と思ったのは、昨今、東浩紀氏が『思想地図』などのイベントで展開している議論と骨子がほとんど一緒だったという点だ。みんな同じようなところに問題意識を持ち、同じように考えている。知の分散投資をしたい僕にとって、この相関係数の高まりは、なかなか深刻な問題である。

Posted by Syun Osawa at 00:36

2010年03月02日

Saori@destinyバレンタイン with バニラビーンズ

2010年2月13日/17:00−19:00/中目黒solfa

東京に10年以上住んでいるのに、中目黒に行ったのは初めてだった。お洒落臭が漂っていて居心地が悪いw しかも、今回のイベントの会場である中目黒solfaは、そんなお洒落な街にピッタリなイベントスペース(早い話が、小奇麗なクラブですわ)で、なぜそんなところで濃いアイドルイベントが行われなければいけないのか…。デートピアってよくこの会場を使ってるっぽいので、そういう大人の事情って奴なのかもしれないが、ステージもDJブースを高くしただけの代物だし、ライブハウスとして使うにはかなり無理があるよなぁ。ヲタにも安心の高円寺HIGHとかにしてくれるとありがたいのだが。

とはいえ、そんな小箱な会場が幸いして、バニラビーンズがかなり近い位置で見れたのはラッキーだった。お二人とも可愛いですな。衣装とか雰囲気からして、登場時がクライマックスってくらいにインパクトが強い。バニビの曲もちょっと甘めのお洒落な雰囲気を漂わせているし、本人達からしてそうだから、中目黒solfaにもマッチしているが、見ている客だけがヲタ(さーせん)という状況、つまり僕らだけが異常というわけだw

メインのSaori@destinyは、ステージの大きさの問題でキーボードの二人が前に配置されてしまって、Saoriの位置が少し遠くなってしまったのは残念だったが(なんか吉原の芸者さんみたいな雰囲気でちょっと面白かったが…)、かなり盛り上がっていたと思う。キーボードの二人が 新宿秋葉原 のインストア・イベント以上の演出(曲間を次曲のシンセのリフで繋ぐとか)をしていてライブ感も向上。僕の好きな「ステンレス・スターライト」とか「サヨナラリヴァイバル」などもシンセが入ってより華やかな感じになっていた。

で、秋葉原のイベントの感想 で書いた、リップシンク2.0の話。

今回のライブでもリップシンク問題(と個人的に思っているだけだが…)は乗り越えられておらず、普通のリップシンク1.0にとどまったままだった。僕はそれをマイケル・ジャクソン型のリップシンク2.0(コーラスワーク、掛け合い、一部生歌など)で乗り越えてもらいたいと思っているわけだ。激しい踊りの中で歌うことなどかなり困難なわけだし、ほとんどの人がリップシンクをOKとしている現状があるんだから、ライブではCD音源とは違った声の重ね方をしても全然許されるのではないか? というのが、僕の考え方である。

もちろん、CDのまま聴きたいという人もいるのかもしれないが、シンプルに生声が聴きたいと思っている僕のようなヲタも少ないはずである。ただでさえテクノ系のパフォーマンスは音の抜き差しくらいしかやることがないと揶揄されることもあるわけで、だからこその折衷案というか、ハイブリッド型のパフォーマンスを見せてくれれば中年ヲタ的にも満足なわけである(お前が早く卒業しろよ的な話は放置する)。そういや、ヲタ芸なんかもずっと進化してないなよなぁ。ヲタのマッチポンプっぷり、こっちのほうがもっとヤバいかもしれないが…。

Posted by Syun Osawa at 00:19

2010年03月01日

鋼鉄都市

アイザック・アシモフ/訳:福島正実/1979年/早川書房/文庫

鋼鉄都市東浩紀『 クォンタム・ファミリーズ 』を読んだのをきっかけにして、僕の中に少しだけSFに対する愛が芽生えたので、前から読もうと思っていたSF小説を順に読んでいくことにした。と言っても、SF小説はほとんど読んだことがないので、名作と呼ばれているもののうち、中編・短編を読むだけだが(中村融編『20世紀SF』など)。

この小説が発表されたのは1953年。その当時に描かれた未来を、57年後に読むという状況は何とも不思議な感じだが、案外古さを感じなかった。その一番の要因は、作品の中で描かれている「ロボットが活躍する場が広がり、人間を脅かす」という状況が、今でもまだ今後来るべき未来社会として夢想されているからだろう。

少し前、なだいなだ氏が筑摩書房のPR氏『ちくま 2010年2月号』で、派遣労働の人間がロボットに置き換われていくというエッセイを書いていたが、これなどは、アシモフが描いた未来社会がすぐそこにまで迫っている状況を示しているのではないだろうか。

とすると、今後ロボット開発が進んでいけば、『鋼鉄都市』の人間とロボットのように、両者は激しく対立する存在となりうるのだろうか? 僕はそのことについては少し懐疑的である。というのも、この小説には「少子化問題」と「CGによる3D映像の普及」という二つの想像力が抜け落ちているからだ。

少子化による労働力不足は今後深刻になることが自明である。それを補うために、ロボットを積極的に使うことは、今後さらに多くなっていくだろう。さらに、お一人様の老後を癒すAIBOのような愛玩動物ロボットも触れるだろうし、今後下っていくであろう人口や経済の隙間を埋めるためにロボットは大きな役割を担うことは間違いない。また、3D映像はロボットの持つぎこちなさを視覚的に伝える装置としても機能しており、人々はCGを通してロボットの未来像を違和感なく受け入れ始めている。

なお、この小説はミステリーの要素を大胆に取り入れている。以前、桜坂洋氏が東浩紀氏と共同で作っていた「ギートステイト」の対談の中で、「未来を描いただけでは小説にならない。その未来で何かが起きて、そのことがストーリーになる。」というようなことを言っていたが、まさにそれを地で行っている感じだ。この小説に見られるハイブリッド型は、今後も伸びていくんだろうね(新潮社のPR誌『波 2010年2月号』で松田哲夫氏が、そのような小説を「総合小説」と読んでいた)。

Posted by Syun Osawa at 01:09